その129 教養としてのゾンビ。

 ーム好きの間で、異様に難易度が高かったり単調だったりするゲームのことを、いくぶんかの愛着をこめて「クソゲー」と呼ぶことがあるが、本の世界にもひっそりと、そういう「おバカ本」の類は息づいている。先日、本の業界紙の宣伝をぼんやり見ていたら気になりすぎる新刊を発見した。『ゾンビ襲来』というタイトルで、書いたのは国際政治理論を専門とするアメリカの教授。帯に「その日にどう備えるべきか? 各国首脳必携!」と書いてある。あえて言わせてもらいますが、アホかと。でも私は知っている。このような馬鹿フルスロットルの本を仕事の合間を縫って一生懸命執筆した人がいて、編集した人がいて、それを辞書を引きながら伝わりやすい日本語をめざして翻訳した人がいて、なるべく多くの人に届けられるよう配本した人となるべく多くの人の目に触れるよう新刊台に積んだ人がいるということを。このような冗談を実現するために費やされた時間を想像して私はめまいが覚えるほどのおかしさを感じた。だから、すぐに買いにいって、その紹介文をいまここで書いている。つまり、私もミイラになってしまったわけだ。

ゾンビ襲来: 国際政治理論で、その日に備える

ゾンビ襲来: 国際政治理論で、その日に備える

 この本のサブタイトルは「国際政治理論で、その日に備える」である。いつかゾンビが襲ってきた日に備えて、現代の政治理論はどれほど準備ができているのか、ということを検証していく書物だ。

本書で検討される理論パラダイムは、リアリズム(現実主義)、リベラリズム自由主義)、ネオコン新保守主義)、コンストラクティヴィズム(構成主義)と多岐にわたり、国際政治学上の講学上の諸理論の、ほぼ全域をカバーしている。(解説より)

 ほら、もうこの時点で読む必要がないと思ったあなた。あなたは正しい。私は間違ってもこの本の質が高いなどと主張するつもりはない。ゾンビをネタにして学者が専門用語を並べ立てて語ったお笑い本以上のものだとは思わない。でも、面白いのだ。何が面白いのかというと、読んでいるうちに、この人が職業にしている国際政治理論なんて本当は必要ないんじゃないかと思えてくるところが。そしてそれは、ゾンビ映画を見ているとき、本当はゾンビより人間のほうが怖いんじゃないかと思えてくるときの面白さにすごく似ている。こんな本書いちゃって、この人仕事にぜったい悪い影響出ているだろうなとか、同業者に悪辣な批判くらっているだろうなとか、容易に想像がつくのだが、そんなの関係ねえ、俺はゾンビが好きなんだッ!!という愛というか侠気のようなものが文の端々からひしひしと伝わってくる書物である。

リビング・デッドは風呂に入ったり、ひげを剃ったり、服を着替えたりしなくても良いし、自分たちの同類を外見で判断することもない。ゾンビは、人種や肌の色、民族、性的指向に基づいた差別をすることもない。彼らは常に大きな群れでいる。彼らは究極のエコを実践している。ゾンビは、どこにでも歩いて行き、オーガニック食材〔人肉〕しか食べない。このような記述は、多くの社会において変革の主体であるところの、大学生のライフスタイルの特徴を正確にとらえている。ゾンビは、人をゾンビが望むものへと導く、ソフト・パワーの隠された貯水池なのかもしれない。

 この本を読みながら、私はいつのまにかゾンビに嫉妬していた。そしてこの著者がゾンビを見るようにゾンビを見てみたいという気持ちがむくむくと湧いてきた。そうしてあまたのゾンビ映画を観たあとに、もういちどこの本を読むことができたとき、きっと私の眼球から鱗が剥がれ落ちるはずだ。

(写真:本カバーの袖についている著者プロフィールが最高な件)

 妻エリカは、私が書いた他のものに対してと同じように、今回の私のこの本に対しても、私を元気づける言葉と困惑したという態度との適度な配合で対応してくれた。このような形での彼女の惜しみなく冷静なサポートは、死して墓の下へと行っても永遠に続くことだろう。
 最後に、『国際政治の理論』の著者であり、私の専門分野の大権威であるが、実のところ実際に会った事はないケネス・ウォルツに対しては、ひとこと言っておきたい。マジで、すいません…。

この巻末の謝辞もユーモアがあって好きです。(波)

その128 帰りの電車で読むならこの本。

 く演劇なんかを見に行くと「この舞台は役者とお客さまが一緒になってつくりあげるものです」などという口上を聞くことがあるが、通勤電車に乗っているとき、確かにそれはあるかもしれないと思う。人が場をつくる、というのは本当だと感じるのだ。
 乗っているのは同じ東京メトロT西線の最新型15000系車両、乗車位置もいつも同じ座席中央鉄ポール左脇なのに、車内の居心地というものが行きの電車と帰りの電車ではまったく異なる。顔を洗って歯磨きしてきた人々がなるべく静かに眠りを稼ごうとしている空間と、仕事を終えてぐったりしたり、酒を飲んでへべれけになっている人々が何かに気を遣うことを放棄した空間とでは、居心地に天地ほどの差が生じるらしいのだ。
 もちろん朝の通勤電車すべてが穏やかな空間というわけでは全くなく、朝から地獄絵図のような電車のほうが都会には多いのかもしれないが、私がいま使っているN駅始発朝8時台T西線の車内空間はたいてい、さながら日曜の礼拝堂のような静けさだ。乗っていると、ここは日本の教会なのではないかと思ったりする。そんな電車で読むなら、ねっとりと熱い官能小説などよりは、無駄な思考を排したビジネス書や、行間がつまり過ぎていない詩集などのほうが向いているに決まっている。

 反対に、帰りの電車で読む本は行きと同じにするとつらい。帰りの電車であまりすてきな本を読んでいると、明澄な脳内と下世話な車内空間のあいだで軋轢が生まれ、活字が上滑りして全然頭に入ってこなくなる。物凄くページをめくる圧の強いミステリーとか、何か強烈な刺激のあるもののほうが帰りの電車には向いていると思う。

 私が帰りの電車で読むのにおすすめしたいのは、岸本佐知子のエッセイである。ユーモアが強烈なので全然飽きないし、数ページでひとつのエッセイが終わるので乗り継ぎにもスムースに対応できる。何よりほの暗くて毒のある内容が多いので、車内の人間たちに対して抱く殺意と文章から立ちのぼる低い周波数がシンクロしてとてもいい感じなのだ。加えて電車の中で読むという「笑ってはいけない」状態が一層、読書の快楽を強くしてくれる。毎年大みそか紅白歌合戦の裏番組でやっているダウンタウンの「笑ってはいけない○○」と同じで、ひとたび死のむせび笑いモードに入るとそこから先はちょっとしたネタにも固くつぼまって敏感になった横隔膜がはげしく痙攣して終点に着いた頃には夏の浜辺にうち上げられたクラゲの死体のような精神状態でシートに座っている自分がいる。

なんらかの事情

なんらかの事情

 折しもこの2012年冬、6年ぶりのエッセイ集『なんらかの事情』が出たばかりである。読書界にM-1グランプリがあったらまず岸本さんは優勝に違いない。ちなみに私が考えるそのほかの優勝候補者を挙げるとリリーフランキー三浦しをん町田康である。誰かお笑いエッセイでアンソロジーを編んでもよいのではないだろうか。(波)
女子の生きざま (新潮文庫)

女子の生きざま (新潮文庫)

桃色トワイライト (新潮文庫)

桃色トワイライト (新潮文庫)

フォトグラフール

フォトグラフール

その127 計算ずくの人生に飽きたら。

 のところ、ブログの更新が滞っていた。ただ面白かった、ではすまされない本に出会わなかったからでもあるし、ブログを書くよりも大切なことがあるように感じたからでもある。早出して仕事をしたり、睡眠をとったり、家の掃除をしたり、ぼうっとしたりすることが大事に思えたので、ブログを更新しなかった。

 けれども、幸運なことに、またいい本に出会えた。誰かに時間をかけて「こんな本をみつけましたよ!」と報告したくなるような本を読むことができたのだ。こういう読書をしている瞬間はほんとうに楽しくて、生まれてよかったと大げさでなく思う。

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン

 マーク・ローランズという大学教授が書いた『哲学者とオオカミ』という本のことを話したい。2010年に邦訳が出版され、今私が持っているのは第8刷。本体価格2400円の人文書なのに、よく売れている。ひとりの哲学教授が、一匹の子オオカミを買ってきて、育て、看取るまでの記録と省察。何がすごいかって、オオカミを飼って暮らすということがまず大変だ。家の中や車をめちゃくちゃに壊されながら、著者はオオカミとの共同生活を通じてさまざまな洞察を得る。その洞察のひとつひとつが、今の私の気分にとてもぴったり合った。

 ローランズという人はいわゆるエリートで、オックスフォード大学で哲学の博士号を18ヶ月という異例の早さで取得している。そんな彼が言うには、ブレニン(オオカミの名前)は「それまでの長ったらしい教育が教えてくれなかった、そして教えてくれることができなかった何かを教えてくれた」。

 きっと多くの人々が、動物と一緒に暮らすことで、ローランズと同じような洞察をぼんやりと得ているのだと思う。ローランズのような論理的記述能力に優れた人がその洞察を明晰に記録したというところにこの本の価値はあるのかなと思う。

 ローランズが得た洞察のひとつに「サル的」な生き方と対照的な「オオカミ的」な生き方というものがある。著者によると、私たちヒトはサル的な特徴を極端に発達させた存在なのだという。

「サル」とは、世界を道具の尺度で理解する傾向の具現化だ。物の価値を、それが自分に役に立つかどうかで測るのだ。サルとは、生きることの本質を、公算性を評価し、可能性を計算して、計算を自分につごうのよいように使うプロセスと見なす傾向の具現化だ。

 この記述を読んで、私は、いま自分が仕事で必要とされている能力の多くがサル的な特徴に当てはまることを感じた。もっと言えば、それはプライベートな人間関係においてすらそうだ。いわゆる「成功」という言葉で表現されることを達成するためには、このサル的な要素が欠かせない。そして、仮にそうやって成功したとして、感じる空しさをどうしたらいいのだろうというのが、このところの私の悩みの一つだった。何かもっと別に大事なことがある気がするのだけれど、それが何なのかよくわからないという悩みだ。

 著者が主張する「オオカミ的」なもの、そこに救いを感じたというのが、今日私がここで書きたいことだ。著者みたいに、オオカミを毎日職場に連れて行き、果ては動物への同情から菜食主義者になる、なんてことはできないけれど「オオカミ的」な生き方を自分なりに目指すことはできるのではないか、そう感じた。

 ではその「オオカミ的」とはどういうことか。引用してみる。

ブレニンがウサギに忍び寄る様子を眺めているうちに、人生で大切なのは感情ではなくて、ちゃんとウサギを追いかけることなのだということを学んだ。わたしたちの人生で最良のこと、よくある表現を使えば一番幸せなときは、楽しくもあり、とても不快でもある。幸せは感情ではなく、存在のあり方だ。私たちが感情に集中するなら、大切な点を失ってしまう。

人生で一番大切なのは、希望が失われたあとに残る自分である。最終的には時間がわたしたちからすべてを奪ってしまうだろう。才能、勤勉さ、幸運によって得たあらゆるものは、奪われてしまうだろう。時間はわたしたちの力、欲望、目標、計画、未来、幸福、そして希望すらも奪う。わたしたちがもつことのできるものすべて、所有できるあらゆるものを時間はわたしたちから奪うだろう。けれども、時間が決してわたしたちから奪えないもの、それは、最高の瞬間にあったときの自分なのである。

あなたはいろいろな存在であることができる。けれども、一番大切なあなたというのは、策略をめぐらせるあなたではなく、策略がうまくいかなかったあとに残るあなただ。もっとも大切なあなたというのは、自分の狡猾さに喜ぶのではなくて、狡猾さがあなたを見捨てた後に残るものだ。もっとも大切なあなたというのは、自分の幸運に乗っているときのあなたではなく、幸運が尽きてしまったときに残されたあなただ。究極的には、サル的なものは必ずあなたを見捨てるだろう。あなたが自分自身に問うことのできるもっとも重要な疑問は、これが起こったときに、その後に残るのは誰なのか、という問題なのである。

わたしは時間の動物ではあるが、大切なのは最高の瞬間だということを今でも思い出す。大切なのは、収穫時の大麦の粒のように人生のあちこちに散らばった瞬間であって、人が何かを始めたり、終える瞬間ではないということを。

 これらの記述のどこが「オオカミ」と直接関係するのだろうかと考えてみると、疑問は残る。けれどもこうした考え方は、著者がオオカミと一緒にいることで初めて見えた啓示なのである。
 今、ここでいくつか引用しても唐突な印象は免れないだろうと思う。それでも、この本を手に取るきっかけのようなものになればありがたいと思って、感銘を受けた部分を抜き書きしてみた。自分のやっていることに時々空しさを感じながら、どうにかして救済を求めている人に是非読んでほしいと思う。

 ちなみに、この本に出会った経緯を書いておくと、仕事が終わって飲み会までの空き時間、ジュンク堂書店大阪本店の3階で開催されていたフェア「レビュー合戦」の小冊子を手にとったことがきっかけだった。白水社みすず書房東京大学出版会の3社が互いの出版物をリスペクトしあうという代物で、そこにこの『哲学者とオオカミ』も紹介されている。興味のある方は、こちらをチェックしてみて下さい。(波)

その126 ひどい自分と向き合った日に読む本。

 世の中にはひどい人というのが沢山いて、というか自分のなかにひどい部分のない人はあまりいない。自分のひどさをどのように表現するか、それが個性なのかなと思う。ストレートにひどい部分を表現して他人に嫌われながら生きるというのも一つの方法だし、なるべくひどくない自分を目指して生きる人もいる。自分のひどさに目をつぶって生きるという方法もある。「俺はひどい」「ひどいのは嫌だ」「俺はひどくない」。リアリストか、ロマンティストか、カルトか。私自身はひどいことだけが現実ではないと思うから、自分のひどさに開き直った狭量な現実主義者は嫌いなのだが、それでもやはりひどい自分という現実からは逃れようもない。

非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)

非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)

 「あなたはひどい人間だ」と言われたとき、どうしようか。そう考えて私は園子温の本『非道に生きる』を読むことにした。書名にあるとおり著者の園さんは人間のひどさに誠実に向き合う映画監督である。その考え方は、下のような部分に出ていると思う。

世界に一つだけの花」というSMAPの歌の中で、「誰もがたった一つの特別な花である」ことは繰り返し唱えられるのですが、「誰もが特殊な花である」とは歌われません。「一つだけの花」の言わんとすることは、かけがえのない、その人固有の幸せを誰もが噛み締めることができるということで、その人固有の毒や不幸や呪いや、人の道に非ざる非道の考えなんかはその「花」には含まれていない。「一つだけの花」は、特別ではあっても、特殊ではないのです。特殊な花はもはや個性として扱われず、異端として、平和や幸福のルールから外されてしまう。それが僕の小学校時代から延々と繰り返されてきた、踏み外しの道=非道の道でした。

自分たちが特別なものであってもいいが、特殊なものであってはならない。家庭内に特殊性が潜んでいたとしても、目をつぶっていかなくてはならないと思い込んでいることが、すべての問題だと思います。自らが特殊であることを認め、受け入れて、お互いを許すということが革命的に行われたならば、家族は本当に内側から変われると思います。

 すすんで自分のひどさに自覚的であること。そのメリットはどの辺りにあるのか。この本によると「覚醒」つまり「緊張感が生み出すエネルギー」にあるらしい。ブレイクする前の満島ひかり吉高由里子らに何度も撮り直しを命じて徹底的に追い込んで演技を引き出した、というエピソードは、園映画をひとつも見たことのないままこの本を読んだ私でも知っているくらい有名な話ですが、それも「面白くなるのにもったいないな、という自然な感情から追い込んでいるだけ」。でもこんなこと、自分を徹底的に追い込んだ人じゃないと言えない。小学校に全裸で登校し、高校を卒業すると「飯を食うために」新興宗教と左翼団体をはしごして生活、40歳まで四畳半のアパートに住み、アメリカでホームレス同然の暮らしをした園氏だからこそ、他人を徹底的に追い込めるのだと思う。だから自分の生産性が落ちてきたな、と感じたら、まずは自分や、身の回りの嫌な部分をこれでもかというくらい見てみる。そのためのツールとして、園監督の映画を使えばよいのではないか。この世の悪をエネルギー源に変える覚悟があれば、打開できる問題もある気がします。

 最後に、この本で、すごくいいと思ったところは「ドキュメンタリーに不可能なこと」というくだり。

報道やドキュメンタリーでは取材する対象をカメラに収め、彼らの言葉を収めていきます。しかし、その言葉はすべて過去形で語られます。「あのとき、何が起きたか、どうだったか」——決して、現在進行形で「その刹那」が語られることはありません。いま現在の体験を描くこと。これが、実話を基に僕がドラマを作る理由のひとつです。ドキュメンタリーは、他者の声を聞き、その情報を他者のものとして認識し、人に理解させることはできても、それを受け取る人自身の経験にすることはできないのです。

 前々から、カメラを回したりレコーダーをセットした上で記録された「事実」の不自然さが気になっていたので、この記述にはとても共感を覚えて読んだ。この言葉はそのまま、フィクションにしかできないこと、という問いへの答えでもあると思う。ありえない表現、嘘、幻想、そうしたものはうまくいった場合、受け手が作品に触れる瞬間に唯一無二の経験となりうるということ。小説の販売が生業のひとつである私にとって、いつも自覚していたい考え方です。(波)

その125 楽しい小説をお探しの方に。

 んらい、小説というのは楽しむためにあるもので、だとすれば「楽しい小説」というのは、馬から落馬するとか、頭痛が痛いといった言い方と同じものかもしれない。私は、こうした重複表現のことを考えるといつも、かつての上司が『セツナイコイ』という漫画のタイトルを見て「恋なんてせつないに決まってるんだからこのタイトルはおかしいよな!」と憤っていたのを思い出す。その瞬間に居合わせた人は「ああ…」とか「ええ…」とか言うだけで誰も深入りをしなかったので、あの発言が彼の真意だったのかどうかは結局今もわからないままだ。

 楽しい小説…それはおいしい料理と同じくらい根拠が不確かで、個人的なものかも知れない。けれども味覚が化学反応であるのと同じく、小説を読んで楽しいというのにもそれなりの理由というか、構成要素があるのだろう。今日はサマセット・モームの『お菓子とビール』という小説が、自分をどうしてこれほどまでに楽しませるのか、少し考えて書いておこうと思っている。

お菓子とビール (岩波文庫)

お菓子とビール (岩波文庫)

 『お菓子とビール』は二十世紀前半のイギリスを代表する作家、サマセット・モーム五十六歳のときの作品で『月と六ペンス』『人間の絆』と並ぶ傑作の一つと評されている。本の解説によると、四十歳から七十四歳までの長きにわたって小説を発表し続けた作家の代表作であるだけでなく、著者自身いちばん気に入っている作品でもあったという。これだけで、モーム・ファンには読む理由としては十分だ。モーム作品は『雨・赤毛』という短編集と『月と六ペンス』しか読んでいなかった私だが、二作ともに心酔した経験があるので、この作品が新訳(二〇十一年刊)で出ているのを見つけたとき、すぐさま買わずにはいられなかった。

 私は、モームの人間観が好きだ。モームの自伝的エッセイ『サミング・アップ』にこんな記述がある。

人間を観察して私が最も感銘を受けたのは、首尾一貫性の欠如していることである。首尾一貫している人など私は一度も見たことがない。同じ人間の中にとうてい相容れないような諸性質が共存していて、それにも拘わらず、それらがもっともらしい調和を生み出している事実に、私はいつも驚いてきた。

 悪評のたつ人の中にある優しさや清らかさ、貧しく無学な人の中にあるおおらかさや勤勉さ、社会的に評価されている人の内にある狡猾さや俗物根性、モームの小説『お菓子とビール』には、今記したような人々の性質がときに感動的に、ときにユーモラスに描かれている。けれども全体としてモームが人を見る目はフラットでこだわりがない。いろいろ嫌なこともあるけれど、こんなふうに世の中を見たら許せるような気がする、少なくとも辛かった思い出が少しだけ浄化される。そんなせつない意図に裏打ちされた笑いがモームの小説の魅力ではないかと思う。
 例をいくつかあげる。どれも私がこの小説で好きな記述だ。

ロイが文壇で次第に頭角を現してくる過程を結構関心して見てきた。その道程は、これから文学の世界に入ろうとしているどんな青年にも大いに参考になるだろう。あんな僅かな才能であれだけ高い地位を得た作家は私の同時代には見当たらないと思う。ロイの才能たるや、健康に敏感な人なら毎日服用するがよいと宣伝されているサプリメントのスプーン山盛り一杯分くらいであろうか。

「六十年間も仕事を継続し、毎年作品を刊行し、次第に読者を増やしてきたドリッフィールドが評価に値するのを否定するなんて、僕には理解できないな。ファーン・コートの邸には各文明国の言葉に翻訳された彼の作品がずらりと並んだ棚がある。今日では古風に感じられる作品も多いのは認めるにやぶさかではない。彼の活躍した時代の風潮で、冗漫になりがちだった。筋立ては概ねメロドラマ的だ。だが、常に彼の作品すべてにあると認めねばならない特質がある。それは美だ」
「ほー?」僕が言った。
「いちばん大事なのは、美が充満していないページを一ページも書かなかったということだ」
「ほー?」

なるべくジョージ殿には会わないのがよい、と思った。ところがある日大通りで彼に会ってしまった。
「いよう、坊ちゃん」僕のいちばん嫌いな言い方で呼びかけた。「休暇で帰省したのだな?」
「あなたの推定は正しいです」僕はぞっとするような嫌味をこめて答えた。
残念なことに、彼は大笑いするだけだった。
「君はナイフみたいに切れる人だから、用心しないと自分のことを切ってしまうよ!」

 この、意地悪なんだけどちょっとやさしい感じがとても好きなのだ。

 『お菓子とビール』は、亡くなった大作家の伝記を書こうとする友人に、大作家について知っていることを教えてくれと頼まれた語り手が、若かった頃の自分と大作家との交流を思い出して語る、という話。しかしながらこの小説の面白さは、伝記には書けない思い出の数々にある。それは当時自分が住んでいた下宿の雰囲気だったり、美人で不節操な大作家の奥さんと交わした会話のことだったりする。そのひとつひとつは社会的に価値がなかったり、許されなかったりする思い出、『お菓子とビール』のような思い出なのだ。この楽しさ、愉楽そのものをモームは書きたかったのだと思う。
 少々ゴシップめいた話になってしまうが、小説の中で大作家の妻として登場するロウジーという名の魅力的な女性は、モームの実人生にモデルがいたらしい。本の解説に、こんな記述があった。

彼女はモームが生涯で愛した唯一の女性だと判断して正しいと思う。求婚を拒否されても、彼は恨むことなく、いつまでも彼女への追憶を胸に秘め、『お菓子とビール』という創作の世界で見事にロウジーとして蘇らせることが出来たというわけで、その点作者としてはさぞ満足だったに違いない。ロウジーの創造は本書のもっとも注目すべき特色であり、作品の魅力の源泉である。

 つまるところ、これは物語の筋というより、脇道に魅力のあるたぐいの小説である。しかしながら、その脇道のひとつひとつが、著者の実人生の失意と情熱に裏打ちされているので、私はこの小説をどうしようもなく好きになってしまうのだった。小説に書かれていることが、そのまま小説を読むという行為の価値を語る構成になっている点が、この小説が傑作と呼ばれるゆえんではないかと思う。(波)

サミング・アップ (岩波文庫)

サミング・アップ (岩波文庫)

その124 自分の使い方がわからなくなった人へ。

 電製品を買っても説明書を読まない人がいるように、人間に生まれても生物学の本なんて読まなくたって生きていける。でもたまに読むと、ものすごい発見があって、世界的にはとっくに発見されていたことを自分が全然知らずに生活していたことに愕然としたりする。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』は、この夏の私に、まさにそんな愕然体験を与えてくれた本だった。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 この本を読もうと思ったきっかけは、立ち読みだった。近所の書店に置いてあった一四歳に向けたブックガイド(『ほかの誰も薦めなかったとしても今のうちに読んでおくべきだと思う本を紹介します。』)で、貴志祐介氏が『利己的な遺伝子』を薦めているのを見つけて、読んでみたいと思ったのだ。でもそれから四ヶ月くらい買わないでいた。いくら凄い本といったって、一九七六年に書かれた科学書を今読んで意味があるのかと不審に思ってもいたのだ。しかし、心の奥底でずっとノック音は鳴りつづけていて、ある週末に、トラヴィスの五枚目のアルバムに収録されている「Selfish Jean」を机で聴いているとき、やっぱり読もう! と思い立ってとなり町まで衝動的に買いに走ったのだった。
Boy With No Name

Boy With No Name

 この本に書かれていることは、貴志氏がインタビューで述べた表現を借りると「生物が子孫を残すために遺伝子があるのではなく、遺伝子が残るために生物が作られた」という考え方だ。私たちは自分という生物をひとまとまりの実体として考え、行動することに慣れているが、この本を詳しく読むと「おのれ」の最小単位は生物個体ではなく遺伝子だとわかってくる。つまりひとりの人間というのは名詞ではなく沢山の遺伝子の指令がひしめきあう動詞なのだ。

 個体は安定したものではない。はかない存在である。染色体もまた、配られてまもないトランプの手のように、まもなくまぜられて忘れ去られる。しかし、カード自体はまぜられても生き残る。このカードが遺伝子である。遺伝子は交叉によっても破壊されない。ただパートナーを変えて進むだけである。もちろん彼らは進み続ける。それが彼らの務めなのだ。彼らは自己複製子であり、われわれは生存機械なのである。われわれは目的を果したあと、捨てられる。だが、遺伝子は地質学的時間を生きる居住者である。遺伝子は永遠なのだ。

 議論がややこしくなるので、ここでは、なぜそうなのかということは説明しない。興味がある人、そんなの嘘だと感じた人はこの本にぜひ、直接当たってください。私は読んでみて、著者の書いたことが間違っているとは思えなかった。
 この本を読むまで、私はダーウィニズムの適者生存という考えを、強い人、頭のいい人、格好いい人だけを大事にする差別的思考であるように偏見をもって捉えていたのだが、全くの勘違いであることを知った。適者、というときの主人公は、人種とか、個人とかではなく、遺伝子なのだ。ダーウィニズムはむしろ、偉人も俗物もみな平等に、遺伝子が使い捨てる乗り物であるという冷酷かつ爽快な視点で世の中の現象を見ることを教えてくれる。
 「ああ、希望は充分にある、無限に多くの希望がある。——ただわれわれにとって、ではないんだ」というカフカのことばがある。大学生の頃に読んで、ずっと忘れられなかった表現だ。このことばがなぜ、自分の心に響いたのかを、私はこの『利己的な遺伝子』を読んでようやく悟った。個体にとってではなく、遺伝子にとっての希望。それは希望であることには変わりがないけれど、決して手に入れることができないものだ。
 もうひとつだけ、この本についてどうしても書いておきたいことがある。それは、なぜ私たちは卵から生まれるのか、という問いを著者が論じていることだ(第十三章)。この答えを知ることは、じつは時間と死を新しい視点で見ることにつながる。この世界に卵と子どもがなかったら、私たちは時間感覚を失う。私たち大人が大きいまま分裂して殖えることができれば、それは不死の世界かも知れないけれどそれは「やりなおすことができない世界」であり「いいことと悪いことに差のない世界」になるはずだ。そして単細胞生物においてはそれは実在している世界なのだ。このことから導き出される結論は「わたしたち人間は改善すべく運命づけられた存在だ」ということだと、私は思う。
 どうして、私はこうなんだろう、という深い悩みを抱えたことのある人に、ぐっとくる一冊だと思います。(波)

その123 時には昔の話を。

 週の土曜日、上林暁の『故郷の本箱』という随筆集を鬼子母神下のガレージで買った。吉祥寺でひとり出版社をしている島田潤一郎さんが興した夏葉社という版元で通算6冊目にあたる新刊本だ。島田さんと、ジュンク堂書店仙台ロフト店に勤務する佐藤純子さんが対談を行うというので聞きにいって、その帰りみちに自分へのおみやげとして買ってきた。ガレージで買ったというのは、その日「みちくさ市」という古本のイベントが行われていて、夏葉社の出店がそこにあったのである。

 この随筆集に「律儀な井伏鱒二」という作品がある。そこに、こんな井伏氏のセリフが出てくる。「おい、みんな黙って、上林の話を聞いてやろうじゃないか。誰でも旅から帰って来た時は、話を聞いてもらいたいものなんだ」。酒場でめいめい勝手なお喋りをする一座を制して発した井伏氏の言葉に、後輩作家の上林氏は「井伏氏の細かな心の動きに、これほど感心したことはなかった」と書き記している。今の私の心境も、旅のみやげ話をもてあましていた上林氏の気持ちと似ているかもしれない。誰かに、土曜日に聞いたことを話したいのだ。

 かつて往復書簡を交わしていた島田さんと佐藤さんが、その続きを対談でおこなう、という主旨だったか、明白な目的はよくわからないのだが、そこに集まった人はみな、島田さんの話を、佐藤さんの話を聞きたくて集まっていた。そんなの当たり前じゃないか、と言われればそれまでだが、ふたりがどんな話をしようとも聞いてやろうと思っている点が特殊だ。みんながどうかは知らないが、少なくとも私はそんな気持だった。佐藤さんにはかつて東北に出張したときからお世話になっているし、島田さんは大好きな作家マラマッドの復刊本『レンブラントの帽子』を出版してくださったということで勝手に恩義を感じている。

 この随筆集に「小説を書きながらの感想」という作品がある。そこに、上林氏の息子が子どもの頃、おたまじゃくしに夢中になるあまり、海辺の風景にもおたまじゃくしを描いたという逸話が出てくる。

 五月頃この子は盛におたまじゃくしを獲って来て飼ったのであった。学校からかえると、おたまじゃくしを捕りにゆくんだと言って、飯もそこそこに出かけてゆく。捕ってきたおたまじゃくしは、いくつもの空缶や空瓶に飼い、殊に牛乳瓶には藻を入れ、おたまじゃくしが藻にとまったり、ヒラヒラ泳いだりするのを眺めていた。水が汚くなると、すべてのおたまじゃくしを洗面器に移し、瓶や缶の水を取り替えてやるのだった。おたまじゃくしのような芸のないものをと僕は思ったけれど、蟹や目高が捕れるわけではないので、そのまま、ほったらかしておいた。 
 それから二ヶ月近く経った。おたまじゃくしはいつの間にか一匹もいなくなった。ところが、おたまじゃくしが彼の絵の中に生きて来たのである。絵は勿論幼稚で、得態のわからぬものだったけれど、彼がおたまじゃくしに寄せた夢を、執拗に再現しようとしている意図だけは、判るのだった。彼はその夢を生かそうとして、倦むことを知らず、おたまじゃくしの絵を描いているのだった。
 僕にはこれが非常に面白かった。絵は下手だけれど、夢がある点に、心を惹かれた。僕たちが、花なら花、鳥なら鳥に無心に寄せた夢は、かならず僕たちの芸術に生きて返って来ることを、眼の前に見る思いがした。

 この小文は「芸術とは、生活上の夢の再現であると思うのである」という一文で締めくくられている。いま引用したくだりが、島田さんと佐藤さんの対談の雰囲気に近いと思ったので、説明の代わりに書いてみた。まるで主題なんてないように、時間のことなんて忘れているように、島田さんはほぼ90分間、断続的にみずからの失恋の話をしていた。そして、それを佐藤さんと私たちはずっと聞いていた。廃校になった高田小学校の職員室で、予定表の白いマス目が残った黒板を背にして、悩みを打ち明ける先生同士の話を、呼び出された生徒たちがそわそわしながら聞いている。でも、教室で行われる授業よりもずっと、生徒たちは真剣に聞いている。そんな感じの対談だった。
*     *     *
 もう亡くなって20年以上も経つ作家の短編撰集を作った動機として島田さんは、古本屋の山本善行さんが薦めていたことと、上林氏の妹さんに会ったことについて語っていた。妹さんに「お兄さんの本ができました」といって手渡したいという心で、この本を作ったという話を聞いて私は感激した。どうしても読んでもらいたい誰かのために真剣に本を作る、という姿勢に打たれた。

 この本を紹介するには違うことを書き過ぎたかも知れない。ともあれ、本当にここだけは読むことができてよかったという箇所をもうひとつだけ、引用しておきたい。

 僕は時々、ひとから、よく頑張りますねと言われることがある。親しい友人でも、君はよく頑張るなア、と言うことがある。
 僕が貧乏や病気など構わず、文学に齧りついてやっているのを、ひとは頑張っているというふうに見るのかも知れない。頑張っているのには間違いはないだろうけれど、頑張っていると言われると、僕は一寸心外な気持がするのだ。
 なぜ心外な気持がするかと言えば、僕にあっては、文学をやるということは、頑張るとかなんとかいうよりも、もっと自然な状態だからである。僕は努力をよく口にするけれど、今となっては、努力ですらないかも知れない。文学をやるということは、生きることそのことなのだ。だから、文学をやめるとか、やめずに頑張るとかいうことは、僕においては意味をなさないことだと考えている。そこへ持って来て、よく頑張ると言われると、一方に文学をやめることが想定されているようで、心外な気持がするのだ。(「小説を書きながらの感想」)

 この上林氏の姿勢、そして島田氏の姿勢にはどこか通じるところがあるように思う。私はこれからこの本を読み返すたびに、失恋した島田さんの顔を思い浮かべるに違いない。本も大事だが、本の周りのことを知って本を読むと、特別な本ができる。そういう主旨の話を、このブログでいつも書きたいと思っている。(波)
*     *     *
<追記>
書店員・佐藤純子さんのたのしい日常と妄想をつづった漫画『月刊 佐藤純子』が本になりました。というわけでちょこっと宣伝。このブログの筆者もどこかに登場します。

http://md-sendai.com/sendaibunko/