その143 青春と別れるための一冊。

 のブログも断続的ながら4年くらい続けてきて、自分としては読んだ本のことをもう一度理解するためのいい機会になったり、あとで人に話すときの記憶のよすがになっていたりして、意味のある活動だった。けれどもいっぽうで、ブログってなんとなく「男らしくない」行為だなあとも思っていた。ほんとうに伝えたいことがあるのなら、時間をとって論文や批評文にしてしかるべき人の審査を受けて社会に発表したり、あるいは実際に会った人に話したりすればいいわけで、インターネット上にふんわりと何か書くのは、甘ったるい自己愛の世界から逃れられない人のすることのような気がして厭だった。
 というわけで、個人的には以上のような理由で、このブログを書くのをやめて、できた時間を仕事やら勉強やらに使うことにした。一緒に書いてきた薮氏と歩氏の考えとはまた違うかもしれないけれど、私としては今回がたぶん最後の更新です。
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 本との出会いはいつも不思議なもので、情報として知ってから自分のもとに届くまで時間がかかることがある。「面白い本」というのは世の中に無数にあって、自分が生涯に出会う面白い本はその中のごくわずかだ。だから本を選ぶときは面白さと同じくらい、自分に関係があるかどうか、ということを無意識に判断していると思う。近くにいる人がすすめてくれたから、たまたま行った場所でしか買えないから、自分の辛い境遇にぴったり合う本だから、そうやって理由をつけていろいろ読んできた。「面白さ」の理由を自分なりに見つけようとしてこのブログを始めたのだが、書いているうち、分類できる面白さの要素とは別に、その人の人生にしかない本の意味が、本の面白さを決めているとわかってきた。

 本との出会いが不思議だ、というのは、ずっとその本のことを知っていて触れてこなかったのに、この本を読むなら今をおいて他にないというタイミングでその本を買ってしまうことがあるからだ。私にとってよしながふみの『フラワー・オブ・ライフ』という漫画がまさにそれだった。宇野常寛氏の批評集『ゼロ年代の想像力』で絶賛されていていつか読もうと思っていたのだが、昨日出張で行った書店でなんとなく棚を眺めていたらこの本の背だけ光って見えてきた。ちょっと大げさに言えば光っていた。冷静に書けば一度目にしたあとどうしても買わなければいけないような気がした。表紙を出して陳列されていたわけでもなく、本の背表紙を読んで納得したわけでもない。

 そして帰りの新幹線でずっと泣きながら読んでいた。冷静に書けばずっと泣いていたわけではなく、ときにくすくす顔をニヤけさせながら、ときに口を結んで涙も流さず感動しながら読んでいた。この本を読んで本当によかったと思った。

 『フラワー・オブ・ライフ』は高校生活の一年間を描いた青春群像劇だ。友情があり、友愛があり、家族愛があり、教師と生徒の愛があり、教師と教師の不倫があり、姉萌えがあり、額出しメガネっ子萌えがあり、コミケ愛があり、仕事愛があり、侠気の賛美があり、倫理規定がある。細かく書くとそれぞれの面白さが半減するような気がするので書けないが、もうどうしようもなく好きな作品だ。ストーリーだけでなく、絵もすばらしい。アップのときだけ書き込みが細かくなる登場人物の表情。読み返したときに沁みてくる、風景をきりとったなにげない瞬間のひとコマ。

 この作品が自分にとって大切だったのは、もう30をすぎたいま、自分のなかにあった青春への恋慕の気持ちへさよならを言う手伝いをしてくれる作品だと思ったからだ。この本の3巻に載っているそれぞれの登場人物が自分の青春に別れを告げるシーンの連続は大人にこそ響くと思う。本当に自分の気持ちに嘘をつかずに生きるためには、自分の気持ちを一旦捨てる覚悟も必要だと知って、それぞれの人物が自分の人生に向き合うくだりは、30代の人にぜひ読んでほしい。(波)