その126 ひどい自分と向き合った日に読む本。

 世の中にはひどい人というのが沢山いて、というか自分のなかにひどい部分のない人はあまりいない。自分のひどさをどのように表現するか、それが個性なのかなと思う。ストレートにひどい部分を表現して他人に嫌われながら生きるというのも一つの方法だし、なるべくひどくない自分を目指して生きる人もいる。自分のひどさに目をつぶって生きるという方法もある。「俺はひどい」「ひどいのは嫌だ」「俺はひどくない」。リアリストか、ロマンティストか、カルトか。私自身はひどいことだけが現実ではないと思うから、自分のひどさに開き直った狭量な現実主義者は嫌いなのだが、それでもやはりひどい自分という現実からは逃れようもない。

非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)

非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)

 「あなたはひどい人間だ」と言われたとき、どうしようか。そう考えて私は園子温の本『非道に生きる』を読むことにした。書名にあるとおり著者の園さんは人間のひどさに誠実に向き合う映画監督である。その考え方は、下のような部分に出ていると思う。

世界に一つだけの花」というSMAPの歌の中で、「誰もがたった一つの特別な花である」ことは繰り返し唱えられるのですが、「誰もが特殊な花である」とは歌われません。「一つだけの花」の言わんとすることは、かけがえのない、その人固有の幸せを誰もが噛み締めることができるということで、その人固有の毒や不幸や呪いや、人の道に非ざる非道の考えなんかはその「花」には含まれていない。「一つだけの花」は、特別ではあっても、特殊ではないのです。特殊な花はもはや個性として扱われず、異端として、平和や幸福のルールから外されてしまう。それが僕の小学校時代から延々と繰り返されてきた、踏み外しの道=非道の道でした。

自分たちが特別なものであってもいいが、特殊なものであってはならない。家庭内に特殊性が潜んでいたとしても、目をつぶっていかなくてはならないと思い込んでいることが、すべての問題だと思います。自らが特殊であることを認め、受け入れて、お互いを許すということが革命的に行われたならば、家族は本当に内側から変われると思います。

 すすんで自分のひどさに自覚的であること。そのメリットはどの辺りにあるのか。この本によると「覚醒」つまり「緊張感が生み出すエネルギー」にあるらしい。ブレイクする前の満島ひかり吉高由里子らに何度も撮り直しを命じて徹底的に追い込んで演技を引き出した、というエピソードは、園映画をひとつも見たことのないままこの本を読んだ私でも知っているくらい有名な話ですが、それも「面白くなるのにもったいないな、という自然な感情から追い込んでいるだけ」。でもこんなこと、自分を徹底的に追い込んだ人じゃないと言えない。小学校に全裸で登校し、高校を卒業すると「飯を食うために」新興宗教と左翼団体をはしごして生活、40歳まで四畳半のアパートに住み、アメリカでホームレス同然の暮らしをした園氏だからこそ、他人を徹底的に追い込めるのだと思う。だから自分の生産性が落ちてきたな、と感じたら、まずは自分や、身の回りの嫌な部分をこれでもかというくらい見てみる。そのためのツールとして、園監督の映画を使えばよいのではないか。この世の悪をエネルギー源に変える覚悟があれば、打開できる問題もある気がします。

 最後に、この本で、すごくいいと思ったところは「ドキュメンタリーに不可能なこと」というくだり。

報道やドキュメンタリーでは取材する対象をカメラに収め、彼らの言葉を収めていきます。しかし、その言葉はすべて過去形で語られます。「あのとき、何が起きたか、どうだったか」——決して、現在進行形で「その刹那」が語られることはありません。いま現在の体験を描くこと。これが、実話を基に僕がドラマを作る理由のひとつです。ドキュメンタリーは、他者の声を聞き、その情報を他者のものとして認識し、人に理解させることはできても、それを受け取る人自身の経験にすることはできないのです。

 前々から、カメラを回したりレコーダーをセットした上で記録された「事実」の不自然さが気になっていたので、この記述にはとても共感を覚えて読んだ。この言葉はそのまま、フィクションにしかできないこと、という問いへの答えでもあると思う。ありえない表現、嘘、幻想、そうしたものはうまくいった場合、受け手が作品に触れる瞬間に唯一無二の経験となりうるということ。小説の販売が生業のひとつである私にとって、いつも自覚していたい考え方です。(波)