その140 自分の時間をあざやかにする本。

 の営業をしていると、自分が担当している店が閉店するというのは悲しい。とりわけ私にとってつらいのは、同じ棚をもう見ることはないのだ、と思うときである。その棚には、店の人のおすすめと、人気であるからという理由でおいてある本が示すお客さんの好みと、店にまわってくる営業担当の気まぐれな商売根性の痕跡などの有象無象が入り交じってうごめいている。だから厳密には一日として「同じ棚」というのは存在しないのだが、本の商売をしている人になら、その棚には入れ替わる商品の裏側に潜む棚のイデアのようなものが確かにある、と信じてもらえると思う。
 もうすぐ店が閉店します、と聞いたときに私がよくとる行動の一つは、そこで本を買うことだ。思い出作りの勝手な行動といえばそれまでだが、もうそこで本を買えないとわかったとたん、いつもは見過ごしていた良書とめぐり合ったりするから悲しい。
 同じ紙、同じインク、同じ包装紙にくるまった物質に意味が現れる。私は本を読みながら、その本が自分の時間のある瞬間に焼き付けられるのを感じる。私は本のことを大切だと思う。私は、本を通じて、私のなかの時間が意味づけられるのを知る。だから、私は店で良書を買ったのではなくて、ほんとうは本によって私の時間が良いものになった、というべきなのだろう。

 先日、出張先でいつも寄っていた書店がしばらく休業すると聞いて、一冊のエッセイを買った。向田邦子の随筆を、小池真理子が集めたものだ。そこには、おいしいごはんの話が書いてあった。向田邦子さんがいちばんおいしかったごはんは、空襲に遭って、焼け死ぬ人々を見た翌日に家族みんなでヤケになって炊き上げた白米の味だったという。その次においしかったごはんは、自分が小児結核にかかったことを家族が知って、もうすぐ死ぬかもしれないからと無理をして食べさせてくれた鰻丼。「甘い中に苦みがあり、しょっぱい涙の味がして、もうひとつ生き死ににかかわりあった」ごはんが、ずっと記憶に残っているのだと書いてあった。
 味がする、というのはどういうことか、本を読んで面白いというのはどういうことか。それは栄養や情報が体に行きわたるということとは別に、自分の生きている時間というものを痛切に感じることだと、読んでいて思った。(波)