その128 帰りの電車で読むならこの本。
よく演劇なんかを見に行くと「この舞台は役者とお客さまが一緒になってつくりあげるものです」などという口上を聞くことがあるが、通勤電車に乗っているとき、確かにそれはあるかもしれないと思う。人が場をつくる、というのは本当だと感じるのだ。
乗っているのは同じ東京メトロT西線の最新型15000系車両、乗車位置もいつも同じ座席中央鉄ポール左脇なのに、車内の居心地というものが行きの電車と帰りの電車ではまったく異なる。顔を洗って歯磨きしてきた人々がなるべく静かに眠りを稼ごうとしている空間と、仕事を終えてぐったりしたり、酒を飲んでへべれけになっている人々が何かに気を遣うことを放棄した空間とでは、居心地に天地ほどの差が生じるらしいのだ。
もちろん朝の通勤電車すべてが穏やかな空間というわけでは全くなく、朝から地獄絵図のような電車のほうが都会には多いのかもしれないが、私がいま使っているN駅始発朝8時台T西線の車内空間はたいてい、さながら日曜の礼拝堂のような静けさだ。乗っていると、ここは日本の教会なのではないかと思ったりする。そんな電車で読むなら、ねっとりと熱い官能小説などよりは、無駄な思考を排したビジネス書や、行間がつまり過ぎていない詩集などのほうが向いているに決まっている。
反対に、帰りの電車で読む本は行きと同じにするとつらい。帰りの電車であまりすてきな本を読んでいると、明澄な脳内と下世話な車内空間のあいだで軋轢が生まれ、活字が上滑りして全然頭に入ってこなくなる。物凄くページをめくる圧の強いミステリーとか、何か強烈な刺激のあるもののほうが帰りの電車には向いていると思う。
私が帰りの電車で読むのにおすすめしたいのは、岸本佐知子のエッセイである。ユーモアが強烈なので全然飽きないし、数ページでひとつのエッセイが終わるので乗り継ぎにもスムースに対応できる。何よりほの暗くて毒のある内容が多いので、車内の人間たちに対して抱く殺意と文章から立ちのぼる低い周波数がシンクロしてとてもいい感じなのだ。加えて電車の中で読むという「笑ってはいけない」状態が一層、読書の快楽を強くしてくれる。毎年大みそかに紅白歌合戦の裏番組でやっているダウンタウンの「笑ってはいけない○○」と同じで、ひとたび死のむせび笑いモードに入るとそこから先はちょっとしたネタにも固くつぼまって敏感になった横隔膜がはげしく痙攣して終点に着いた頃には夏の浜辺にうち上げられたクラゲの死体のような精神状態でシートに座っている自分がいる。
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