その141 猛暑に心頭滅却したい人にすすめる本。
夏が暑い場合、夏を殺してしまいたい人と、夏を涼しくする人と、夏が終わるまで待つ人がいると思う。私は根が姑息なのでこういう場合も真ん中の秀吉的態度で夏に立ち向かう。よく、エレベーターの中などで隣にいる人との会話に詰まるとさりげない調子でお暑うございます、などといえる人がいるが、私はあれが苦手である。いつまでたっても「暑いですね」が上達しない。それはおそらく私の潜在意識が夏を敵視しており、暑い夏にクールな発言をここで何とかふり出したいと願っているのに、ただ暑いといってしまってはただの現状追認ではないかと警告するからだと思う。
私はまた根がグレーなので、気を抜くとすぐ意識がここではない、どこかへいってしまう。だから正月に正月らしいことをするとか、大型連休に海外旅行するとか、お盆に里帰りするとか、クリスマスにパーティバーレルを予約するとかいうことにいつも後ろめたさを感じる。しかしイベント死ね死ね団を結成して別の行動をするかというとそうではなく、皆に追従しながら後ろめたさを感じて悦にいっているというあたり実にグレーかつ卑小だ。
簡潔に言うと、私は距離を楽しむのが好きだ。だから暑いときには冬を思って心のなかでひっそり巣ごもりし、冷える日にはなるべく陽気に笑って踊ったりしたい。夏にかき氷を食べることは普通なのだから、暑い日に涼しい音楽を聴いたり、凍てつくような物語を読んだりすることは精神の涼化に意味のあることだと思う。
涼しい小説、としてすぐに思い浮かぶのはスチュアート・ダイベックの『シカゴ育ち』の冒頭に収録されている「ファーウェル」という短編。わずか四ページの短い話ながら、いちど読むと雪景色の情景が記憶からずっと消えない不思議な話だ。シカゴの北の街ファーウェルに住むロシア人の大学教授から自宅に招待された「僕」が教授の家に向かう途中に見た景色の描写がとてもすずしい。
雪が歩道や縁石の輪郭を消し去っていた。桟橋も道路のつづきのように見えた。まるでファーウェルがそのまま湖までつき出ているみたいだった。僕は灯台の光の方に歩いていった。波としぶきに削られた氷が、甲羅のよう桟橋を覆っていた。安全用ケーブルも灯台の塔も、氷のさやに包まれていた。何もかもが凍りついた静けさのなか、浮氷の下で湖がきしむのが聞こえた。桟橋がぶるっと震えるのが感じられた。
- 作者: スチュアート・ダイベック,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 白水社
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また須賀敦子氏は『シカゴ育ち』を評した文章で「読みすすむうちに、読者はシカゴも東京もわからなくなり、本のなかの都会にしっかり根をおろしてしまう。ダイベックの街は、世界中すべての都会育ちの人の、ほんとうの故郷だ」と書いている。
私も、夏になるとこの小説の冒頭の「ファーウェル」を読みたくなり、冬になると最後に収録されている「ペット・ミルク」を読みたくなる。そして読み返すたびに訪れたことのない新しい街の風景に出会い、なんだかほっとする。
最後に、涼しさを感じる音楽もひとつ記しておきたい。ipodに入れる夏用のプレイリストを作ろうと思って買ったベニー・シングスのベスト・アルバム。この人の音楽は一音一音がどうしてこんなに綺麗なんだろうと聴いていると思う。なかでもオリジナルアルバムには収録されていないクリスマスソングがとてもよかった。この2週間、聴かない日はないくらい繰り返し聴いている。通勤中の地下鉄で座ってイヤフォンで聴いていたら涙が止まらなくなったので汗のふりをしてあわててタオルハンカチで拭いた。(波)
- アーティスト: ベニー・シングス
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