その122 図書館にて。

 崎県諫早市立図書館を訪ねると、奥には「郷土の作家」として野呂邦暢のコーナーがあった。僕が手に取った『愛についてのデッサン 佐古啓介の旅』(みすず書房)には佐藤正午の解説が収められていて、少し意外に感じた。佐藤さんは同じ長崎の佐世保出身だから距離は近いが、作品のジャンルや舞台がそれほど似ているとは思えない。僕はふたりとも好きだけど、佐藤さんが野呂さんに熱烈なファンレターを送り、「死をどう惜しんでも惜しみきれない」とまで言うのは不思議だったのだ。
 だが、佐藤さんの解説を読んで納得した。野呂さんをこう評する。

 万年筆のキャップをはずし、原稿用紙にたった一行でも文を書けばそれが詩になる。野呂邦暢はそういう魔法を身につけた作家だった。

 また、野呂さんの文章を読むことで、

 作家の繊細なまなざしをなぞることで読者にもたらされる、さっきまでとはちがう新たな自分が生きているという実感

 を味わわせてくれるという。これは野呂文学の核心を突きながら、佐藤さんの小説観も明かしていると思う。だから僕はふたりの小説が好きなのだ。
 席に着いた僕はエッセイ集『夕暮の緑の光』の目次に、「諫早市立図書館」という一文を見つけた。

夕暮の緑の光 (大人の本棚)

夕暮の緑の光 (大人の本棚)

「私は市立図書館で小説の勉強をした。」から始まる短い文章で、デビュー前の思い出を記す。古い図書館はもともと警察署だったり郵便局だったりした建物なので、小部屋がたくさんあり、小説を書くには都合がよかった。それでも原稿用紙だけを置くのは居心地が悪く、「もっともらしい書物」として「世界大思想全集」などを借りていた。そんな野呂さんの閲覧票を見た館長はこう不思議がったという。

トマス・アキナスウパニシャッド聖典の次にカントと論語というのは一体あなたは何を勉強しているんですか」

 ここから「私はなんとなくあの分厚い本のことを思いうかべる」という最後までの筆はこびは、何度読んでも見事である。辛かった時代を振りかえると人は甘いノスタルジーに浸るものだが、自意識の垂れ流しを許さず、一言一句を選びぬく徹底した態度に、僕はため息をついた。(藪)