その113 敗れさる快感。

 説には良し悪しとは別に、好き嫌いがある。
 本屋さんに行けば、熱心な書店員さんは、たくさんのPOPをつけている。本を読むには時間もお金もかかるのに、自腹を切ってお客さんのために尽くそうという姿勢は、本当に頭が下がった。
 それで推薦の言葉を興味深く読むわけだけど、キャッチコピーの巧みさや熱の入れ方とは関係なく、買うお店ではPOPにつられて、山のように買っていた。逆に、まったく心の動かないこともあった。
 小説は山のようにあり、ジャンルも、傾向も、ばらばらである。どんな読書好きでも、ぜんぶの本を読むことなどできない。当然、自分の趣味にかたよる。書店員さんも人の子なので、POPを見比べれば傾向がつかめるし、この人はこんな本が好きだから、こんな価値観を持っているんだろうな、そこに至るまではどんな人生を送ってきたのだろう、と想像するのはたのしい。


 得意なジャンルがあれば、苦手もあるのが常である。こんなブログをやるには恥ずかしいくらいの読書量しかない僕だが、ミステリー、特に本格推理といわれるものがぜんぜん読めなかった。
 鍵もない密室とか吹雪の山荘で、人がさくさく殺されていって、トリックは重要だが動機はどうでもいい。ひどい偏見だ。でも、つい最近まで僕は、小説の根底では人がどう生きるべきかを問うべきであり、その扱い方や舞台設定は書き手によりさまざまでも、人間の行動とその後ろにたしかな心理がどれだけ描かれているかが、僕にとっての小説の良し悪しだったことを、恥ずかしながらここに告白する。

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

 手にしたこの本は、絶海の孤島を訪れたサークルの学生たちがつぎつぎ殺されるというものだ。殺人予告のようなものがなされ、ひとり減り、ふたり減るなかで、学生たちは誰が犯人かを検討する。
 そこでは動機は重きを置かれない。なぜなら、動機では犯人を特定できないからだ。「誰かを殺したい」と思う人がいたところで、そのなかで実際の行動に移す人間が誰かなど、本人以外はわからない。学生たちが必死に考えるのは、犯人でありうるのは誰かという可能性である。
 ここで殺人は、物語からの退場を意味する記号に過ぎない。かつては小説だからといって簡単に人を殺さないでくれと思っていたけど、逆に考えれば小説だから簡単に人を殺せるのだ。残るのは誰と誰で、どちらが答えか……そして、決めの一文に込められた著者の企みに、衝撃を受けた。
 そこにあるのは対話である。書き手の問い、読み手の答え。その繰り返しで物語は進む。しかし最後には、著者の圧倒的な知性の前に敗れ去る。それが不愉快ではなく、むしろ快感なのは、人は書き手に、自分より「すごいもの」を求めるからだろう。知的能力に欠けているとはうすうす勘付いていたが、まさかここまでとはなあ……まいったなあ……てへへ。
 ずば抜けて頭のいい友人と会話しているようなよろこびを僕は覚えたのだ。

「僕にとって推理小説とは、あくまでも知的な遊びの一つなんだ。小説という形式を使った読者対名探偵の、あるいは読者対作者の、刺激的な論理の遊び。それ以上でもそれ以下でもない」

 なぜ僕が本格推理を読めるようになったのだろう。それは人生に意味や目的ばかりを求めなくなったからだと思う。歯を食いしばる必死さだけが生きがいだった20代が終わり、やっと隙間というか遊びができたから……そんな余裕をかましていると、いつ足元をすくわれるかわからないのですが。(藪)