その112 ロマンティックな日本の小説。

 木賞を受賞した葉室麟の『蜩ノ記』を読んで、さあ次にどの作品を読もうかと思ったとき頭に浮かんだのは、携帯電話でいつか見た本の紹介ブログにあった『秋月記』の引用文だった。

「山は山であることに迷わぬ。雲は雲であることを疑わぬ。ひとだけが、おのれであることを迷い、疑う」

秋月記 (角川文庫)

秋月記 (角川文庫)

 人だけが、人であることの「条件」を書き換えることができる。しかも、他の動物には絶対に真似のできないスピードで。そのことの苦悩を表した名言だと思った。だからとても記憶に残っていた。

 ちなみに、この引用文のあとに続くセリフはこうだ。

「間小四郎、おのれがおのれであることにためらうな。悪人と呼ばれたら、悪人であることを楽しめ。それが、お前の役目なのだ」

 このセリフを吐くのは、九州は筑前の小藩、秋月藩で絶対的な権力を握って人々に恐れられた家老・宮崎織部という人物である。この小説のキモは、人々に悪人として非難されつづけた人物が、なぜ自らを悪人として認めて生きることを選んだのかという理由を知るところにあるのではないかと思う。

 彼は君主との約束を果たすために、独断専横と言われることを覚悟の上で藩の乗っ取り政策に手を貸し、藩士たちに訴えられて失脚する。訴えたほうの藩士たちは、はじめ自分たちが正しい事をし、それが認められたことに晴れがましさを感じるものの、やがてすべては宮崎織部の目論見通りであったことに気づいて愕然とする。織部は、藩の建て直しは自分ひとりの手に余ることに気づき、藩を乗っ取ろうとする福岡藩と、自らを倒そうとする若い世代に自分を「崩させる」ことを選んでいた。

 失脚した織部は、蟄居を命じられたのち流刑を命じられて島を転々とし、長く患いながら苦しい後半生を過すことになる。彼は自分の幸福を捨てて、悪人と誹られながら生きることを選んだのである。

 葉室氏の小説の大きな魅力のひとつは、登場人物がその生き方と言葉において示す倫理感の深みにあると思う。この『秋月記』に関していえば、それはたぶん次のセリフに集約される。

「正しいことさえ行えば、というのは、努めることからの逃げ口上になる時があるのだ」

 この言葉を私なりに解釈すると、人には自分の、あるいは他人の幸福よりも大切な行動原理があるということだ。この小説でそれは「努める」という言葉で表現されている。人が人であることの条件を書き換えずにはいられない存在ならば、書き換えの努力を怠らないこと。そういうメッセージを、私はこの小説に感じた。

*     *     *

 余談ですが、この小説を読んだあと、話題の哲学者、國分功一郎さんが書いた『カントの批判哲学』の解説文を読んでいたら、葉室小説に出てくる武士と、カントの考え方は似ているんじゃないかと思いました。こんな記述を読んでそう思ったのです。

実践理性批判』とは、一言で言えばカントの倫理学である。この倫理学は、「……ならば……せよ」という仮言命法を拝し、「ただ絶対的にこのような仕方で行為すべし」と命ずる定言命法を掲げたこと、そして、唯一の定言命法として知られる「汝の意志の格律が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」によって知られている。

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

 カントは、単純な快とか不快とか、感覚的なものに引っ張られた判断、行動は低レベルだから普遍的な原理とはなりえず、「やらなければならないからやる」という絶対的なルールを自らつくり出して生きるのが人間の道だと説いているようです。するとじゃあその絶対に値するものって何なのさという難しい問いに、葉室作品は答えている。私にはそう思えます。たとえばいちばん大事なことは、あなたの君主との約束を果たすことだ、と。(波)