その114 勝負という名の演技について考える。

 多くの新聞で取り上げられ、ベストセラーとなった柔道家木村政彦の伝記『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を読んだ。2段組み、本編だけで689ページもある大著を読み終えたときは達成感ばかりが先立ってただ面白かった…としか思わなかったのだが、それから2週間ほどが経ち、いま私の頭に浮かんでいることは、なぜ演技の世界に勝負が必要なのか、という問題のことだ。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

 本書の軸となるのは、1954年12月22日に行われたプロレス試合「木村政彦VS力道山」の真相を究明することだ。つまり、プロレスの台本を無視(ブック破り)して木村政彦をボコボコにしKO勝ちした力道山は本当に「勝って」いたのかということを、読者に問い直すというのがおおまかな流れとなっている。序盤は木村政彦と彼を育てた人々が目指した柔道がいかに強かったのか、ということが詳細に語られる。中盤では木村が世界の総合格闘技に与えた影響の大きさが語られ、後半にはプロレスというショーの世界に入ってから木村が転落し、やがて母校に戻って多くの弟子を育て死ぬまでが語られる。

 タイトルからも分かる通り、明白に木村政彦側を弁護する内容であり、本書を読むと木村政彦という柔道家の器の大きさ、破天荒ながら殺伐したところのない人間的魅力がよく伝わってくる。夜ごと師匠の家の庭に立っているケヤキの木に向かって打ち込みを繰り返し、やがて木を枯らしてしまった、というようなぶっ飛びエピソードも満載で、読んでいて本当に飽きない、面白い本だった。

 しかしながら議論の争点となっている力道山とのプロレス試合「昭和の巌流島決戦」についての著者の視点には違和感を感じた。この試合については、試合の映像がアップされているyoutubeのコメント欄でも様々な議論が交わされている。


 曰く、ショーの台本を無視した力道山は卑怯で酷い。この試合で木村政彦の強さを云々するのは間違っている。
 曰く、リングに上がった時点で真剣勝負の可能性を考えない格闘家は結局は弱い。力道山の狡猾な戦い方はある意味で当然だ。

 曰く、そもそも台本ありの演技を真剣勝負であるように謳って煽った時点で、力道も木村も経済的利益を優先してリングに上がった同じ穴の狢だ。だから木村を被害者であるように語ってはいけない。

 などなど。著者である増田俊也氏の意見は、こうだ。

時代劇を撮影中に、役者Aがこっそり真剣を持って、普段から嫌いな殺陣師Bを斬り殺したとする。それを咎められた役者Aはこう言い訳するのだ。「プロの役者なんだから、真剣で斬り掛かられる心構えがないBが悪い」と。これほど的外れの言い訳はないだろう。

 私が著者の意見に感じる違和感、それは「本当の強さ」についての解がどこかにあるはずだという考え方への違和感である。演技の世界よりも、真剣勝負の世界のほうが尊いという信念に従って、この本は記されているように思える。天皇というたった一人の尊い人の前で行われた柔道の試合には勝利し、街頭テレビに集まる沢山の民衆の前で敗れ去った木村政彦という人物は、現代という「嘘の勝利」に敗北したのではないか、そんなふうに私は感じる。そして強く疑問に思うのは、なぜ私たちは真実の中の嘘に裏切りを覚え、嘘の中にある真実には興奮するのだろうか、ということだ。(波)