その102 人生のコンパス。

ノアの羅針盤

ノアの羅針盤

 しあなたが働き続けて、60歳でその仕事を失ったら、どうするだろうか。活発な人ならこれを機に自分のやりたかったことに邁進するだろうし、計画性のない人なら住宅ローンが返し終わらず新しい職を探そうと必死かもしれない。
 この物語の主人公、リーアム・ペニーウェルはどちらでもない。ほどほどの蓄えも年金もあるから(日本では年金が崩壊するらしいけど)、無駄遣いしなければ財布の問題で困ることはない。かといって華々しい第二の人生を送ろうという意欲もないようだ。

 実際、これは何かのサインかもしれない。次のステージへと進むために必要な、自分の背中を軽く押してくれるひと突き。人生最後のステージ、まとめのステージ。ロッキングチェアに座って、「結局のところ、人生って何だったんだろう」と振りかえる、そんなステージ。

 目的地が近づいて着陸の準備をマニュアル通り進める飛行機のように、慌てることも騒ぐこともなく、身辺を整理していく。モットーは「シンプルに、身軽に!」だが、小さなアパートに引っ越した途端、彼は強盗に襲われた。それだけならまだしも、強盗に襲われた記憶を失ってしまったのだ。
 リーアムは大きなショックを受ける。記憶がないということは、その間の自分が、自分でないということではないか。周りは「仕方ないこと」というが、マジメな彼にとって、自分に責任を持てない時間のあったことが、どうにも許せないのだ。狼狽した彼は、他人の記憶を控えることを仕事にする女性の存在を知り、近づくのだが……。
 義務と権利は一体である。リーアムが「記憶を取り戻さねばならない」と強迫観念を覚えるのは、自分の人生は誰のものでもない、自分のものだ、という信念の裏返しに過ぎない。何でもかんでも自己責任を問われる世の中で、自分らしい生き方をしようと思ったら、マジメにものを考える人ほど、守りを固める。身動きが、取りにくくなる。
 じっさい、彼は別れた二人目の妻に言われている。

「だって、あなたは自分から世界を狭めていってるからよ。自分で気がつかない? だんだん狭い場所になってきている。もう独立したキッチンもなくなったし、暖炉も、窓からの眺めもなくなった。あなたは、どうも、なんか……引きこもっていく感じ」

 考えてみれば、長生きするのは本当に大変なことだ。何十年も前に下した決断に、あとで責任を取らされるとしたら、こんなに恐ろしいことはない。それなら若くしてあっさり死んでしまった方が、どれほど楽か。人間は老いて成熟するのではなく、矛盾を積み増していくとしか思えない。
 そんな彼が、別れた妻や娘たち、そして記憶係との関わり合うことで、人生を取り戻していく。近代以降、私たちは個人であることに重きを置く。それが行くところまで行ってしまったようにも思える。だが、一人では生活も、仕事も、勉強もできないから、家族、会社、学校、もっといえば社会という集団があるのだ。
 もちろん集団に入れば、腹の立つことも面倒なことも山ほどある。だから両手を挙げて集団に戻れというのはナンセンスで、実際のところ「やむを得ず」集団に属し、「折り合いをつけながら」やっていくというのが、現実的な選択になるのだろう。
 自分の人生を決めるのは、実は、自分ではない。そのことに気づいたリーアムは、ノアの航海にたとえてこんなことを言うのだ。

「行くところがなかったんだよ。ただ、そこに浮かんでいるようにじっとしてたわけ。ぷかぷか浮かんでいるだけだから何もいらなかった、羅針盤も、舵も、六分儀も……」
「(略)ノアは方角や位置なんか知らなくてもよかったんだ。だって、世界全体が水の中に沈んでるんだから、方角なんて関係なかったわけ」

「人生の目的」や「生きがい」という言葉に息苦しさを覚える方に、お勧めします。(藪)