その100 原点に返る。

 漱石というと活動的な『坊っちゃん』や飄々とした『吾輩は猫である』から、親しみやすい印象を抱くだろう。実際、小説家として成功してからの漱石のもとには多くの弟子が集まった。だが若いころの漱石は、頭脳があまりに明晰なために気難しいところがあり、神経を病むほどだった。周囲の人間にとって、尊敬はできるがあまり近づきたくないタイプだったのではないだろうか。
 そんな若い漱石と友情を結んだのが正岡子規である。肺結核による喀血ののち入院した子規は、退院すると自身の故郷松山へ帰った。そして教師として滞在していた漱石の下宿に住み込んでしまう。
 人と交わること、語らうことが大好きな子規は、下宿でさっそく俳句の会を始める。

 明治二十八年九月、愚陀仏庵での子規を中心とした句会に出入りする者、約二十人であった。最初はそのあまりのうるささに階上で閉口していた漱石も、一週間ほどたつと座に連なって句作するようになった。

 眉をひそめてイライラしていたであろう漱石が、何食わぬ顔をして句会に加わっていたというのが面白い。子規という人物には、人を惹きつけるずば抜けた才能があった。そして集まった人びとを動かして、運動を引き起こす力があった。この本は、子規が本領を発揮する、発病してから死までを描いた物語である。

子規、最後の八年

子規、最後の八年

 血を吐き、歩くどころか身動きもできなくなり、時には39度の高熱にうなされながら、子規のまわりには人が集まってしまう。それは医師に面会と談話を禁止され、面会謝絶の張り紙を出しながらも、それだけでは無愛想だと気にして「爾語(なんじかた)レ我之(われこれ)ヲ聴カン 我黙(もく)ス爾之ヲ聴ケ」と書き足すような人柄にあった。
 弟子の筆頭は子規の立ち上げた「ホトトギス」(子規の死後、漱石の小説が掲載される)の編集者であった高浜虚子だが、子規の存在の大きさに逃げだそうとすることもあった。自分の後継者として期待した虚子がそれに反発した際、子規は「私(あし)はお前を自分の後継者として強うることは今日限り止める。つまり私は今後お前に対する忠告の権利も義務もないものになったのである」とほぼ絶縁に近いことを言いながら、結局は死まで7年間付き合いを続けたのだから、人が好きで好きでたまらなかったのだろう。
 子規は病床にありながら表現を続け、改革の原点である俳句のみならず、短歌や新体詩まで変えようと試みる。小説も大好きで「まれにすぐれた作品に出あえば、薬よりも病気の効能がある」という。猛烈な食欲をバネにしながら、痛みに泣き叫びつつ頼んだ口述筆記に、虚子は「筆記したものが一字も改める必要のない文章になっている」と感心する。
 子規は本来、自由を求めてやまない性格だった。漱石はじめ友人は海外に旅立っていくのに、自身は寝返りできないしトイレにも行けない。だが弟子たちが病室のまわりをガラスの戸や窓に替えてくれたおかげで、視界が広がった。身の回りの観察という最後に残された自由を頼りに、命を燃やすように言葉を紡いだ子規が、僕たちが普通に使うような日本語の土台を築いたのだった。
 さて、子規といえば野球の伝道者としても有名であるが、病床で「ベースボールの歌」なるものを作っているそうだ。

 子規の「ベースボールの歌」九首は、青春の回想であった。二度とはなし得ぬ青空の下でのベースボールを懐かしみながら、志を同じくする者たちが集うチームに似た「座」のたのしみと、「座」のなかを自由に運動する白球のように言葉をとりかわすおもしろさを歌ったのである。

 言葉を書物や新聞の中に閉じこめてはならない。言葉をやり取りすることは僕らにだってできる。その楽しさを、子規の一生は教えてくれるはずだ。(藪)