その94 戦うこと。

音もなく少女は (文春文庫)

音もなく少女は (文春文庫)

 ューヨークの貧しい家庭に生まれた女の子は聾だった。父のロメインは「耳の聞こえる子がほしい」と母のクラリッサを犯した。「どうか妊娠していませんように」母の願いもむなしく、二人目の女の子が生を受けた。彼女の名はイブ、この物語の主人公だ。しばらくして、父は拳銃を手に赤ん坊のベッドに近寄った。

 撃鉄を起こし、狙いをつけ、発砲した。
 部屋が炸裂した。心臓が一鼓動打つあいだ、閃光に彼の影が浮かび上がり、人型をレンガの壁に焼きつけた。クラリッサの悲鳴が聞こえた。(略)
 ロメインは銃でベビーベッドを示して言った。「こいつはやっぱり耳が聞こえない」

 冒頭のわずか十数ページで、夫婦の関係が鮮やかに示される。自らに降りかかる不幸を受け止めるだけの強さがなく、暴力的な衝動に身を任せる父。そんな男から逃れたいと願いながらも、恐怖で身動きできない母。二人の関係に、どう考えても未来はない。しかし、未来がないからといって、関係が終わるわけではない。
 父親の屑っぷりは見事だ。墓掘りの仕事に行っては埋葬品をくすねて金に換える。近所の自転車をパンクさせては知らぬ顔で修理して小銭を稼ぐ。あげくの果てに、耳の聞こえないイブを使って麻薬を「安全に」取引する。
 新聞の人生相談なら、母に「別れてしまいなさい。娘を連れて実家に帰りなさい」と薦めるところだろう。耳が聞こえないからこそ娘にはちゃんとした教育を受けさせたいと母が願っても、父は認めようとしない。
 それでも、母は動かない。実家に帰ろうにも、彼女は孤児で帰る家がない。表面上は人当たりのいい父と比べて、社交性も生活力もない。そして、父を恐れている。

「わたしもベストは尽くしたのよ……耐えられることはなんでもした。恐怖というのはどうしようもないみじめな終着点よ。だから、強くなって。わたしみたいにならないで」

 こういう考え方を受け入れられない人も多くいるだろう。人間は生まれた以上、幸せを目指して駆け上がるべきだ。なぜ行動しないのか、どうして立ち向かわないのか――敗北主義、奴隷根性、後ろ向き、単なる負け犬として、切り捨ててしまうかもしれない。
 たしかに仰る通りだよなあと僕はつぶやく。でも、そういった前向きな人たちは、この本を閉じて別のものを読めばいいだけだ。小説を読む時間はきわめて個人的なもの。その人の精神を時には形作るし、時には傷つける。だから他人に作品を薦めるときは細心の注意をしなければならない。自分が好きだから、面白かったからというだけで、他人の首根っこをつかまえるのは、あまりに危ないことだと思う。
 さて、母は一人の女性と出会う。耳の聞こえない子の教育について積極的な彼女は、イブと関わりを深めていく。女三人が手を取り合って、暴力的な父と、その後ろに広がる無慈悲な社会と向き合ったとき、物語は歩を進め、さらなる悲劇が待ちかまえる。
 原題”WOMAN”の通り、この話は女たちによる、男たち、社会、あるいはもっと広く運命や神との絶望的な戦いを描いている。著者は安易な勝利をもたらさない。読み進めるほどに、心が苦しくなる。それで構わないなら、ぜひページをめくってほしい。
 最後に母が出会った女性の言葉を引いておく。(藪)

「人生は不毛ではないなんて、そんなのはたわごとよ。わたしたちはなんのために悪戦苦闘しているのか。それがあなたの質問なら、わたしの答は――次の一日のためよ。無味乾燥で血も涙もない? あなたは壊れたりしない。わたしがそれを許さない。さあ、目を覚まして、しゃんとして。必要とあらば、わたしたちはなんとしてもあなたを――」