その92 新宿がフクシマになる日。

 卒採用の面接官をしていたら、学生から質問された。
「大震災の影響で、小説は変わると思いますか?」
 いい質問ではあるけれど、採用試験という限られた時間で、しかも上司の目がある公的な場で答えるのは難しい。「新聞やテレビが騒ぐほど、物語は変わるものでない」と簡単に済ませてしまったが、ずっと喉に引っかかっていたので、ここに記す。
 まず作る側から考えると、小説は湯水のように時間を使うものだ。何か事件が起きて、人の心に影響を及ぼすには時が必要だし、その変化を書き手がつかんで自分の物語に昇華するまで待たなければならない。さらに執筆作業を経て、本にして世に問うまで何年とかかる。だから、小説が変わるとしたらずいぶん先の話だし、その動きはとてもゆっくりしたものだ。
 逆に読む側としては、小説に求めるものがすぐ変わるわけではない。そもそも小説とは何かが起きてから読むものではなく、これまでの人生で読んできた小説が精神的な骨肉となり、何かが起きたときに力を与えてくれるものだと思う。
 つまりこの災害で問われたのは、僕たちがどういう物語を読んできたかということだ。ページをめくれば、いろんな時代の、いろんな場所で、いろんな人間の困難な状況を眼にすることができる。彼らの姿をまっとうな想像力で我が身に置き換える経験をこなしていれば、自分が辛く苦しい立場に追い込まれたときにも、世界の見え方が違うだろうし、それこそが物語の力だろう。


 想像力の問題として、一つ提起しておきたい。
 福島原発の事故が収束せず、原子力やエネルギー問題に関心が高まっている。ただ、東京の人間にとって、身近に危険があることを知らせないのは、誰の怠慢だろう。

科学者として

科学者として

 国立感染症研究所(予研)は新宿区戸山の人口密集地にある。その名の通り感染症の研究を行う施設であり、病原体を取り扱っている。20年前に近隣住民の反対を押し切って建設された。
 僕は予研のすぐ裏の学校に通っていて、この本が出版された10年前にも一度読んでいたのだが、読み直すと原発問題との相似に驚かされる。

  • 「耐震性を考慮」としながら安全のための付随設備まで配慮が足りないお粗末さ。

 (病原体を含んだ排気は緻密なフィルターを通しているというが、フィルターの安全性や排気施設そのものが壊れた場合は考慮されていない)

  • 内部で起きていた事故を隠して「安全だ」と言い張る組織の隠蔽体質。

 (裁判にあたって予研側は、提出した鑑定書の署名を偽造までしている)

  • 大義のためには国民の犠牲もやむなしという役所の考え方。

 (感染症研究は国にとってたしかに必要だ。だからといって、住民の生命を担保にできるものではない)

  • 想像を超えた事態が訪れたときのリスクを無視しようとする尊大さ。

 (地震だけではない。テロ攻撃にさらされるかもしれないし、研究者が過ちを犯すかもしれない。人間が完全でない以上必要な「事故は起きるもの」という認識がない)

 原発以上に危険なのは、日本にはバイオ施設の法的規制すらないこと、また病原体が拡散した場合に放射能と違って測定が難しいこと、なによりバイオハザードが起きたときに人口密集地にあるため被害が一瞬で拡散することだ。
 被害にあった福島の人びとを支援するのは大切だし、原発反対に手を挙げるのもいいだろう。だが、心の底で「事故は他人事」と考えて、新宿がフクシマになる危険についてイメージしないとしたら、僕たちの想像力はあまりに足りない。(藪)