その87 本を読むことは正しいのか?

 人の高校教師がはじめた「朝の読書」という運動が広がりを見せている。その名の通り、学校で毎朝決まった時間に本を読ませる試みで、慢性的な売上低迷に悩む出版業界として得るものはあっても失うものは何もないから、全面的に後押ししている。
 素朴な疑問なのだけど、この時間には何を読んでもいいのだろうか?
 中学のころ筒井康隆の短編に読みふけった。ありがちなパターンだ。世の中で正義とされていることに対する距離の取り方、一般に誤りや間違いといわれているものへの親近感、それらを引っくるめたシニカルな世界観のいくらかは、筒井ワールドの影響を受けたはずだ。
 1人で読んでいるからいいものの、健全な「朝の読書」とはいえ、クラス40人のうち、筒井作品を読む生徒が増えていったらどうなるか。冷笑や露悪趣味に免疫ができて高度なエンターテインメントとして楽しめる大人ならまだしも、感化されやすい思春期の連中が、半分といわずとも10人あの世界にはまったら、そのクラスは大変なことになるのではないだろうか? イジメ、性的暴行、殺し、何でもありの筒井作品あるいは『悪の教典』的な現実が教室を襲うかもしれない。
 本はいろんな場面で人を助けてくれる。目の前の問題に対してすぐ効くときもあれば、考えた方や生き方の土台から変えてしまうような本もある。だが、すべての薬が毒になりうるように、本を読むことで人生が狂うことだってあるはずだ。活字に溺れてここまできたから言えるのだけど、本を読むことは必ずしも「正しい」ことではない。

刑務所図書館の人びと―ハーバードを出て司書になった男の日記

刑務所図書館の人びと―ハーバードを出て司書になった男の日記

 熱心なユダヤ教徒として育った青年が、あまりに熱心なゆえに足を踏み外し、ハーバード大を出たあげく路頭に迷い、たどり着いたのは刑務所図書館の司書という仕事だった。刑務所に図書室というと、囚人教育のための「正しい」施設に思えるが、それは外野だから言えることで、一癖どころか何癖もある犯罪者を相手に著者は苦闘する。
「受刑者はなぜ図書室にいくと思う? 『白鯨』を読むためじゃないんだ」
 刑務所のなかで図書室というのは非常に危険な場所だ。法律書に次の裁判で自分を弁護する理屈を組み立てるのはマシな方で、過去の新聞記事に次の犯罪のヒントを捜す詐欺師、小説世界に入り込みすぎて精神的疾患を負う女性受刑者、分厚い百科事典に手紙を挟み込んで仲間と連絡を取り合おうとしたり、もっと単純に図書室で手に入る上製本やボールペンを隠し持って武器にしようとする連中。
 受刑者を管理する刑務官には、図書室なんて物騒な場所はなくしてしまえ、と嫌がらせを仕掛けてくるグループもいる。また、図書室にやってくる受刑者たちの、あまりに人間らしい姿に心を揺さぶられながらも、街で知り合った友人と違って、管理する側とされる側の間に厳しい一線を引かねばならない辛さも味わう。
 それでも、青年は図書室を守ろうとする。表現の手段を持たなかった彼らのために創作指導の授業を設けたり、どこまで踏み込んでいいか悩みながら家族の問題に関わったり、自叙伝の執筆を手助けする。それで報われることばかりではなく、受刑者の自殺、刑務官による密告などダメージも受けながらも、だ。
 ある受刑者は、出所後の夢を描いた。彼は前科持ちのコックとして、いつかテレビの料理ショーで活躍したいと考えた。ところが彼はイロハを知らないどころか、食材の味も分からないのだ。それでも彼は、本を開いて学ぶ。

 チャドニーは料理という新しい道に進みたい一心で、ひたすら食材やスパイスの名前を組み合わせ、料理の練習をしていたのだ。(…)「ローズマリー」はチキンのレモン風味と相性がいいということも知っていた。ただ、転んでローズマリーの茂みのなかに倒れ込んだとしても、それがローズマリーだとはわからないだろう、と告白した。(…)材料は音や音節でできていて、なんの味もにおいもしなかった。

 本は毒になるからこそ、薬にもなる。裁きを受けて社会的地位を失い、最底辺に置かれた受刑者にとって、ふたたび世界にアクセスするための武器は、言葉しかないのだ。活字が集まる場所である図書館は、彼らにとって唯一の希望なのだ。その境地に至るまでの青年の奮闘をユーモラスに描いた一冊、本を愛する人に強くお勧めします。(藪)