その86 寝ることが恐くなくなる本。

 は向上心を抱くと寝ることが恐くなる。人との競争に勝つために寝る間を削って何かしなくてはと思って、夜更かしを正当化するようになる。私はとても寝ることが好きで、また寝ることもずば抜けて得意な方だと思うのだが、大事な何かを犠牲にしなければ何かを得ることなんてできないイデオロギーの虜になると、無理をすることが決意の現れのような気がして、つい空きばりをしてしまう。
 そんな自分を自由にしてくれたのが、いまベストセラーになっているプロサッカー選手、長谷部誠の『心を整える』という本だ。

心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣

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 浦和レッズ時代にはJリーグで優勝し、ドイツのヴォルフスブルグ時代にブンデスリーガで優勝を経験、代表キャプテンをつとめた南アフリカ・ワールドカップでは決勝トーナメントでベスト16に残り、その後のアジアカップでは日本の優勝に貢献。そんな「競争に勝つチーム」に選ばれ続けた男が大切にしているものが、「何もしないで一人で過す夜の30分」であったり「週末のひとり温泉」であったり、「睡眠をしっかりとること」だったと知って私は衝撃を受けた。いま、睡眠の大切さについて語ってこの人以上に説得力のある人はいないんじゃないかと思う。

 よく取材などで、
「大一番で力を発揮するためにどうすればいい?」
 と聞かれるが、僕はそのときに「平穏に夜を過ごし、睡眠をしっかりとる」と答える。
 寝るという行為は意外と難しい。目をつむっても思い通りに寝つけないことも多々ある。だからこそ、普段から「いい睡眠」を取るために夜の時間を自分自身でマネージメントできているかが鍵になる。

 私はこの本に強く影響を受け、寝ることに対する心理的抵抗がかなり減った。毎日8時間睡眠というわけにはいかないけれど、週に一度は10時台にベッドに入って、誠心誠意、思いっきり寝ることを心がけるようになった。

 いま日本で、特に家賃の高い東京でフルタイムで働きながら10時に寝ることはけっこう難しいのではないかと思う。残業を抱えることが多いし、たとえ早く家に帰っても「ストレスを解消する」「自分を取り戻す」などと自分に言い聞かせてテレビを見たり長時間ネットをして時間を過してしまいがちだ。

 この本を読みすすめるうち、そんな自分ってこんな生活ってまちがってないかという心の声がだんだん大きくなってきた。とても謙虚な本なので、何かを声高に主張しているわけではないのだが、私はこの本に「もっと寝ようよ日本人」というメッセージが込められているように感じた。

 よく「メンタルを強くしよう」「心が折れちゃダメだ」「心を磨け」などと言われることがありますが、僕の感覚はちょっと違います。
 僕にとっての「心」は、車で言うところの「エンジン」であり、ピアノで言うところの「弦」であり、テニスで言うところの「ガット」なのです。??? という感じかもしれませんが、「メンタルを強くする」と言うよりも、「調整する」「調律する」と言った方が適している感覚。車のエンジンに油をさし、ピアノの弦を調律する、そして、テニスのガットを調整する。そんな感覚を心に対して持っているのです。

 夜、何もしないで一人でいる。ちゃんと寝る。そういう当然のことを捨てて何を成すことができるのか? 長谷部氏は静かに、でも力強く、私たちに語りかけてくる。松田優作の映画を見ると男の心には一生優作が宿るというが、私はこの本を読んだことで心の中に長谷部のレッズ時代の先輩、田中達也が宿ってしまった。

 レッズに加入すると、いかに達也がプロフェッショナルであるかを間近で見せつけられた。練習前に入念にストレッチをして、練習後も身体の手入れを怠らない。みんなで飲みに行っても達也が来ることは絶対にない。僕が夜に頻繁に飲んでいた頃には、「オマエそんなんじゃダメだぞ」と注意してくれた。僕が試合までの準備にこだわるようになったのも達也の影響だ。決して弱音を吐かず、常に前向きな言葉を口にするので、一緒にいるこちらまでポジティブな気持ちにさせてくれる。

 「オマエそんなんじゃダメだぞ」寝るのが恐くなってきたら、これから私はこの達也のセリフを胸にぐっすり寝ようと思う。(波)