その83 勝手に新人研修。
新入社員は予定通りやってきたのだが、今年は張り合いがない。
どの会社も同じと思うけど、研修が行われる。部署ごとに、仕事の内容をレクチャーしたり、職場に椅子を置いて雑用を体験してもらったりする。
入社した翌年から5年連続で営業の研修を担当した。例年この時期になると、前回の原稿を引っぱり出してきて、今年は何を喋ろうか、頭を抱えることになる。営業の研修は座学なので、つまらないこと、ありきたりなことを口にしていると、目の前の新人たちが眠そうな目付きになるのが痛いほど分かるのだ。
研修は教わる側ではなくて教える側が試されると思う。新人は入社したばかりで相当高いモチベーションを持っているのだから、退屈させたとしたらこちらの責任だ。自分の仕事に誇りを持ち面白さを伝えたいと願い、時には客観的に眺めてこれは上手くできたあれは失敗したという積み重ねをしていれば、新入社員相手に話すことなんて自然決まってくるだろう――とは担当しないから言えることで、編集部に異動して10か月経ってもまだ1冊の本も作っていない居候にはさすがにお鉢が回ってこず、人間というのは勝手なもので追いかけられると逃げたくなるが追われなくなると悔しいため、頼まれていないし相手も存在しないのに、以下勝手に新人研修を試みた次第である。
(お願いですから拍手してください。)
後輩たちの悩みで一番多いのは「人の顔を覚えられない」というものです。
たとえば1日7軒のお取引先を回るとします。担当者はジャンルごとにいるので、仮に1軒につき3人と話します。1か月でひと回りするとして、20日営業に出れば、7×3×20=420人と会うことになるわけです。おまけに担当者は、相手の会社の都合でよく変わります。
皆さんが今まで生きてきて、何百人の顔を、しかも覚えなくてはならない機会なんて、なかったと思います。家族や友達の顔なんて忘れたくても忘れられないし、大学なら指定された教室にいれば先生は向こうから来てくれる。
そう考えると、人の顔を覚えるのが苦手なのは、ごく当たり前のことです。ごちゃごちゃした人間関係が敬遠される、はやりの言葉で言えば「無縁社会」化が進む平成日本で、人の顔をすいすい覚える能力を持っている方が珍しい。
告白すれば、僕も嫌でたまらなかった。親戚も近くにいないし一人っ子なので、基本的なコミュニケーション能力が低いと思います。人とつるんで何かやるのが苦手でした。だから本を読むくらいしかやることがなくて、ここにいるわけですが。
おまけにドが三つくらいつく近眼な上に、右脳が弱いようで視覚的な認識レベルが低い――などと、いろいろ言い訳して、人の顔を覚えられない自分を正当化しようと試みましたが、会社からお給料を頂いている以上、そうも言ってられない。
人の顔を覚えるのは営業に限らず仕事の一つです。そして、最初から人の顔を覚えるのが得意な人はいません。だから安心してください。コツはいろいろあるので、一緒に働くことになったら、生ビール一杯で一つずつ教えようと思います。
そんな不安な顔をしないでください。必要に迫られれば、人間何とかなるものです。
(お茶を飲む。)
相手の顔をちゃんと覚えていなかったために、死刑の判決を受けた男の話を紹介しましょう。
ある晩、彼は奥さんと大喧嘩をして家を出ます。ムシャクシャして入ったバーのカウンターで、隣に座った女性がカボチャのような帽子をかぶっているのに興味を引かれます。彼は「その帽子は、たぶん彼女にとって、なにか自由の象徴のようなものだろう」と思います。
奥さんと行くつもりだったイタリア料理店に彼女を誘おうとして、彼はこんなことを言います。
「ぼくとあなたは、一夜かぎりの友達であること。ふたりの人間がいっしょに食事をし、いっしょにショウを見る。名前や住所、そのほかの個人的な境遇とか、こまごまとした事情にはいっさい触れない。」
大抵の男はこんなことを口にする裏で、よからぬことを考えているものですが、彼は妙に律儀というかマジメです。ホテルに行くこともなく健全な関係で夜遅く家に戻ると、警察が待ち構えています。奥さんが殺されていたのです。彼の浮気が原因で奥さんとは離婚に絡むごたごたが進行中、二人がその晩派手に口論していたのはみんな知っている、おまけに奥さんの首を絞めたネクタイは、ファッションにこだわる彼がその晩着用していて然るべきものです。
警察にとって鴨がネギをしょってきたようなものです。問い詰められた彼は、今晩付き合った女性ならそのアリバイを証明してくれるに違いないと思います。ところが、彼は言うのです。
「彼女は完全なのっぺらぼうなんです!――ぼくは生れつき人の顔を覚えるのが苦手なんです――日常、なんの問題もないときでさえ、そうなんだ。そういえば、彼女にも、たしかに顔はあったんだが――彼女は、ほかの女と同じような身体つきをしていました。ぼくにいえるのは、それだけです――」
これで信じろと言う方が無理な話です。
それでも警察は、彼が立ち寄ったバーやレストラン、劇場、タクシーなどを調べて、一緒にいたと言い張る女性を捜そうとします。ところが、誰一人として「そんな女はいなかった」と言うのです。彼は発狂しそうです。
「ぼくは怖いんだ。ぼくを留置場へもどしてくれませんか。おねがいだ、連れて帰ってください。ぼくはまわりに壁がほしい。この手でさわれるような、厚くて、頑丈で、びくともしない壁が!」
百五十日後の死刑に向けたカウントダウンが始まりました。結末はこの本を読んでみてください。
- 作者: ウイリアム・アイリッシュ,稲葉明雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
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