その73 そろそろ今年をふり返る。

 くて飲めなかったビールを仕事終わりに待ち焦がれたり、昔は聴かなかったクラシックのコンサートに出かけたりするように、それまで読まなかった、読めなかったジャンルの本を楽しむようになる、ことがある。
 僕にとって今年は、海外ミステリの世界へ踏み出す一年だった。時間の有り余っていた学生の頃に、書店でハヤカワ文庫のフェアなどじっと眺めてこの広大な大陸に挑戦したが、「何がおもしろいのか分からない」という致命的な理由で逃げ帰ってきた。それが今や普通に読めるのだから分からない。この調子だと10年くらい経ったら「やっぱりSF最高だよね」とか「自己啓発本に励まされるよな」とか言い出す可能性も高いので、そんな男のレビューを当てにしてはならぬ。でも、同じ脳みそを使って読んでいるはずなのに、何がどう変わったのだろう?
 海外ミステリ再挑戦のきっかけとなったのは、昨年アメリカ探偵作家クラブ賞を受賞したこの本だ。

台北の夜(ハヤカワ・ミステリ文庫)

台北の夜(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 タイトルの通り、舞台は台湾の首都・台北である。大学最後の春休みに一週間ほどフラフラした思い出の街だし、居心地の良さが気に入って再訪したほどで、ひさびさにあの街の雰囲気を味わいたいと思って手に取った。
 ところが、この本に描かれる台北は違う。書かれていることは正確なのだけど、日本人が台湾はじめ韓国、中国、人によっては東南アジアあたりまで抱きそうな、二三日いれば慣れてしまう「ご近所感覚」がまったくない。文字通り右も左も分からない主人公にとって、台北は魔界の底にあるような恐ろしい街だった。
 原題"The Foreigner"の通り、彼はアメリカ人である。ただ、彼の母親は台湾の出身だ。アメリカに渡りみすぼらしいモーテルを経営する彼女には、二人の息子がいた。主人公である兄は、母との会食を欠かさない孝行息子。一方の弟は家出してしまい、叔父を頼って台湾に渡ったらしいが、消息をつかめない。物語は母の死で幕を開ける。
 遺産として、母との思い出がつまったモーテルを譲られるのは弟だった。主人公に遺されたのは、訪れたこともない台北の家。すでにカリフォルニアで職に就く主人公には納得がいかない。とはいえ、遺書を無視することもできず、彼は太平洋を渡る。なんとか再会した弟は、怪しげな連中に囲まれていた。窮地に陥った弟を助けようと兄は奮闘する――
 なんて書くと、主人公が頼りがいのあるいい男みたいだが、まったくの逆。孝行息子というより単なるマザコン。いい年して独身かつ童貞なのは、一度女に浮気された痛手から立ち直っていないから。兄弟愛にしたところでただの押し売り、助けようとした弟に「兄貴は人間なんかじゃない。くそいまいましい聖人なんだよ。(…)世界を見下ろしていい気分なのか?」なんて言われている。主人公の会社での描写。

 だが私は、きちんと整理された報告書にも、扱いにくい数字にあてはめる公式にも、整頓を徹底して効率的な環境を整えたオフィスのデスクの上にさえも、誇りをもっていた。使っているペンはすべて戦闘隊形の兵隊のように色分けして並べ、一日の終わりにはデスクを拭き清める習慣を守ってきたのだ。そして、こうしたことすべてが私に達成感と、優越感さえ与えていた。

 隣にいたら殴りたくなるような奴だ。まるで自分みたいじゃないか!
 ダメ男とか悪くてどうしようもない奴なら自分の半径3メートル圏内にいない分には面白いし可愛げあるけど、「良くてどうしようもない奴」はお手上げだ。自分の善意や正義を疑わないのだから始末に負えない。そんな奴が主人公なのに(だから?)、彼が右も左も分からない台北の街でひどい目に遭っていく様は、実に読ませるのだから不思議だ。
 本書の終わりで、いい加減彼もある真実に気づくのだが、それは読んでのお楽しみ。この本は、中年男の成長物語である。20歳遅れの「青春の門」である。日本人と同様、アメリカ人も、自分を育てるチャンスが見つけられないのかもしれない。成熟を拒否した中年があふれているのかもしれない。つまり、世界を覆う共通の問題に迫った、きわめて現代的な小説である。


 海外ミステリの舞台はたいてい知らない土地だし、言葉、家族、宗教、政治……違いを挙げればきりないが、優れた小説は深みのある人間描写や鋭い問題意識によって、国境を越えられるものなのだ。それを建前ではなく本音として腹の底から分かったとき、僕に広大な海外ミステリへの扉が開かれた。今まで怖がっていたハヤカワ文庫の棚にも近寄れるようになった。すると、なんと面白そうな本たちであふれていることか!
 新しいジャンルの本を読むことは、新しい世界に生まれることなのだ。(藪)