その72 あぶない小説。

 り扱っている題材や事件とは別のところで、小説には危険なものとそうでないものがあるように思う。実生活への影響力が強いものと、弱いものがあるという意味だ。たとえば時代小説で人が何人斬られようとも街で帯刀している人物にあうことはほとんどないから、だいたいが無害な小説である。いっぽうで、残忍なシーンはひとつとしてないのに読む人を混乱させる危険な小説がある。
 明日からの生活に影響をおよぼしかねない本、あなたは好きですか。ちなみに私はわりと好きです。むしろそういう差し込みのない小説って空しくないかと思う。ここで紹介したいのは、そんなふうに、小説を読む時間にも人生への影響を求めてしまう功利的傾向の強い人にうってつけの短篇である。
 小説が実生活へ影響を及ぼすかどうか。それにはたぶん二つの要素が関係する。ひとつには使われている道具立てが実生活と同じかどうか、といういわゆるリアリズムの度合い。もうひとつは、小説がことばで指し示す「存在しないもの」を、私たちが実生活でどのくらい心に抱いているか。
 スティーブン・ミルハウザーの短篇「イレーン・コールマンの失踪」は上の二つの要素がほぼ完璧にそろった小説である。この「ほぼ完璧」というところが微妙なところで、完璧に揃ってしまうともはやそれは小説ではなくてノンフィクションである。この短篇には「絶対に現実ではない」という部分が一箇所登場する。ある種のSFを読んでいるとき、その小説が嘘であるとわかっていればいるほど登場人物の感情が真に迫ってくることがあるように、この「イレーン・コールマンの失踪」も、現実に還元できない場所が残っているがゆえに読む人を混乱に陥れる。この小説を読んだ後「わたしも犯人なのではないか?」と一瞬でも思わない人がいるだろうか?

Dangerous Laughter: Thirteen Stories

Dangerous Laughter: Thirteen Stories

 あるひとりの30代女性が失踪した。忽然と姿を消したのだ。その彼女と高校時代にクラスメイトだった男が、失踪事件の真相を追うというのが小説の筋書きである。一種のミステリーだが、この小説の特徴は彼女の失踪を二重に捉えた点にある。事件があった日の晩に彼女に起きたことを具体的側面から描写すると同時に、人々の意識から彼女がどのようにして失踪したかを克明に描いているのだ。

失踪当初、私は何度も彼女のことを思い出そうと努めた。英語の授業で一緒だった、いまや粒子の粗いぼやけた見知らぬ人間に成長した目立たない女の子のことを思い出そうとすると、スチームパイプ脇のカエデ材の机に座って本を見下ろしている姿が見えてくる気がした。両腕は細くて青白く、茶色い髪の一部が肩のうしろ、一部が前にかかっている、長いスカートと白いソックスをはいた大人しい女の子。だが自分が彼女をでっち上げているのではないという自信が私には持てなかった。

 スティーブン・ミルハウザーがこの小説で描いているのは、私たちが日々おこなっている感情的な殺しのことだ。近くにいても、自分には関心がないという理由でその人の存在そのものを忘れ、いなかったことにしてしまう。

彼女は私にとって、高校で一緒だった人物、それだけだった。どんな人間なのかほとんど何も知らないが、さりとて彼女に恨みがあるといったこともない。彼女は本当に行方不明のイレーンその人だろうか? 失踪して初めて、それらつかのまの遭遇が、ある種の痛ましさに彩られているように思えてきた。その痛ましさが偽物であることは私も自覚していたが、それでもやはり感じずにはいられなかった。自分は立ちどまって彼女と話すべきだった、彼女に警告すべきだった、彼女を救うべきだった、とにかく何かをすべきだった。そう思えた。

 著者自身も記しているように、この感情的な殺しへの罪の意識は偽物である。物理的に近くにいるというだけの人にいちいち関心を払って生きて行くことなんてできない。意識は好むと好まざるとに関わらず何らかの選択をして生きていく。それでも、あそこにいた、自分にとって何の魅力も感じない人を「消してしまった」ことを改めてつきつけられるとき私たちは無感情ではいられない。この感情的な不思議がおそろしく鮮明に描かれているために、この小説は読み終えたあと私たちの意識に沢山の死体を浮かび上がらせる危険な小説である。

彼女は一人ではない。夕暮れどきの街角、暗い映画館の廊下、淡いオレンジの照明が灯る物悲しいショッピングセンターの駐車場に並ぶ車のフロントガラスのなか、我々は時おり彼女たちを、この世界のイレーン・コールマンたちを見かける。彼女たちは目を伏せ、顔をそむけ、影に包まれた場所に消えていく。

 著者のスティーブン・ミルハウザーは1943年生まれ。アメリカの作家。ホテル王の栄光と悲劇を描いた長編『マーティン・ドレスラーの夢』でピュリッツァー賞を受賞。輪郭のはっきりした幻を書かせたらこの人の右に出る者はいないと思います。柴田元幸氏による訳書が沢山ありますが、個人的におすすめはデビュー作の長編『エドウィン・マルハウス』と中・短編集『イン・ザ・ペニー・アーケード』。今回紹介した「イレーン・コールマンの失踪」は雑誌「モンキービジネスvol.2」に収録。この作品を含む13作が収められた短篇集”Dangerouis Laughter”は米国ではすでに発売され、ニューヨークタイムズ・ブックレビューが選ぶ2008年ベスト10のうちの1冊に選ばれています。邦訳版の出版がホント待ち遠しいです。(波)

モンキー ビジネス 2008 Summer vol.2 眠り号

モンキー ビジネス 2008 Summer vol.2 眠り号