その74 ややこしさから離れたいときに、読む本。

 のうNHKで再放送されていた坂本龍一の「Schola 音楽の学校」を見た。「バッハ編」と「ジャズ編」を続けて見ていて、音楽でいうコードは文学でいうと何にあたるだろうという疑問が浮んだ。

 そしていま、リディア・デイヴィスという作家の書いた『話の終わり』という小説について書こうとして、この小説はたった1つのコードによって成立したのではないかという考えが閃いた。作品全体を通して、あるひとつの情感の和音が響いているように思えて仕方がなかったのである。

話の終わり

話の終わり

 私が、彼のことを、思い出す。この長編小説は今あげた3つの意識の動きを中心に描かれている。初めから終わりまで、267ページにわたって文章が「いなくなった男」の記憶をめぐってさまよい続ける。主人公は作家で、別れた年下の男への愛情を文章にしようと試みる。たとえば、彼についての驚くほどきめ細やかな次の描写。

彼の体に腕をまわすと、指先や腕の皮膚にまず触れるのは彼の着ている服の生地だった。腕に力をこめるとはじめて、その下にある筋肉や骨が感じられた。彼の腕に触れるとき、実際に触っているのは木綿のシャツの袖だったし、脚に触れれば、触っているのはすりきれたデニムの生地だった。腰のうしろに手を当てれば、骨のように硬い二筋の筋肉の畝と一緒に、私の手で温められた彼のセーターの柔らかな毛糸も感じていた。そして彼の胸に抱き寄せられれば、すぐ目の前に見えるのは、シャツの布地の木綿糸の織目やランバー・ジャケットの表面の毛羽立ちだった。(48ページ)

 反対に、小説にとっての現実と関係のないものはあっさり排除される。

私は自分の記憶とノートを頼りに書いている。ノートに書き留めていなければ忘れてしまっていたことはたくさんあるが、そのノートに書かなかったこともたくさんあって、そのうち覚えているのはほんのわずかだ。覚えていることのなかにはこの話と全く無関係なこともあるし、彼とほとんど、あるいは全く無関係だったせいで、いい友人であるにもかかわらず話の中に全く登場しないか、ごく目立たない形でしか出てこない友人たちもたくさんいる。(72ページ)

 さらに「私」は「小説の中の」私や彼の言動について書くだけでなく「小説を書いている」私についても書く。そしてまた、私が彼について思い出せないことや、彼のことを忘れようと自分を欺いたことについても書く。

自分があちこちで事実を少しずつ変えているのはわかっている。うっかりそうしてしまうこともあれば、故意のこともある。混乱を避け、より真実味をもたせるために順序を入れ換えることもあるが、より受け入れやすく、口当たりよくするためにやることもある。こんなことを早い段階で感じたのは不適当だったと思えば、それをもっと後のほうにずらす。こんなことを感じたのは不適当だったと思えば、まるごと削除する。彼が名づけるのも嫌なほどひどいことをしたのなら、それについて何も言わないか、そのひどい行為をそのままに書いて、名前では呼ばない。もしも私が何かひどいことをしたのなら、もっと穏当な言葉で呼びかえるか、それについては触れない。(122ページ)

すでに私は二十四時間つねに心のどこかで彼のことを考えているということはなく、日に何時間かは想像上の彼とではなく、自分一人で過ごせるようになっていた。私はそのことをまるで朗報を聞いたように、何か祝福すべき良い報せを聞いたように喜んだ。
 すると、もう私は悲しみから癒えたのだから、彼とまた一から新たな関係を築けるかもしれない、という考えが浮かび、喜びのあまり、またしても彼を探しに出かけていった。私はいつもこんなふうに自分をペテンにかけた。自分の中に賢さが生まれると、ちょうどそれに見合うだけの愚かさも生まれるのだ。(238ページ)

 こうやって書くと複雑ですごく偏執狂的な実験小説みたいだが、文章があまりにも澄みきっているので読み易く、難解な印象はない。しかしこの小説の面白さを証明しようと思うと呼吸困難に陥る。うまく書けないのがもどかしいが、この小説の魅力をひとつ挙げるとすれば、さまざまな思念感情が沸いては消える私たちの混沌とした日常世界とは対照的に、一つの情感によって統一された秩序ある美しい世界を彷徨う楽しさだと思う。この小説がどうして面白いのかという質問は、ある音の連なりがどうして音楽になるのかという質問に似ているような気がする。

もしも誰かにこの小説のテーマは何かと訊ねられれば、いなくなった男の話だと私は答える。(12ページ)

 見方によってはおそろしく単調な話だ。この話に主題を求めたり、劇的な展開を期待したりしても何も得られない。でもこの小説が音楽なのだと思えばきっと楽しい。楽譜に従って進む音楽が、ときに自由な即興によって楽しいものに変わるように、この小説も方々に過激な描写がそっと現れてダークな笑いを誘う。このあたりの抑制の効いた訳文には、エッセイの名手でもある岸本佐知子さんの凄みを感じる。

最初の晩、私は酒を飲みすぎて月あかりの景色の中で遠近感を失い、クッションのようにふわふわに見えた白い岩のくぼみにダイヴしようとして彼に止められた。(5ページ)

夜、たまに他の人たちと会うときは、ビールやワインをどんどん注いでもらいたがった。眼鏡をはずして膝の上に置くのだが、それが何度も床に滑り落ちるので、しまいに床に置いたまま靴を脱いだ足で押さえつけた。(29ページ)

 この小説をずっと家のバスタブの中で読んでいたら、風呂場でギターの練習をしていたジョアン・ジルベルトのボソボソした歌声のことを思い出しました。静かな空間で読む事をおすすめしたい本です。(波)

ジョアン 声とギター

ジョアン 声とギター