その67 ひさしぶりとさよならのあいだで。 

いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくように、かつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。あなたにそのことを話してあげよう。わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。
 あなたがどこにいるとしても、わたしたちはできるだけのことをしてみなければならない。話を伝えるためには、あなたのいるところはとてもとても遠く、わたしたちにある言葉といえば、西瓜糖があるきりで、ほかにはなにもないのだから。うまくゆけばいいと思う。
 わたしはアイデスのすぐ近くの小屋に住んでいる。窓の外にアイデスが見える、とても美しい。


 のはじまり、小高い山の中腹でわたしはこの本を読んでいた。急な山道を登らなければ来られないからか、猫いっぴき通ることのないつめたくしずかな場所。20年前に引っ越したその町へ向かったのは会いたい人がいたから。彼がそこにいると聞いたから。あの日、この町を出てから誰とも連絡をとっていなかった。だからわたしの記憶のなかで彼は小学校五年生のままで学校指定の制服を着ている。白いシャツに紺色の半ズボン。茶色い眼、薄い笑い方。穏やかな声、華奢な手足。彼の容姿も佇まいも20年のあいだ情報が更新されていなかったのだ、仕方ない。20年ぶりに会ったところで何を話していいか分からなかったし、そもそも向こうがわたしのことを覚えているかすら怪しかった。それでも会いに出掛けたのは、そうしないことにはおかしくなりそうだったから。


 20年ぶりに降り立つ駅。ロータリーに停まるバスの乗り場を自分が覚えていることにびっくりした。こんなことを覚えているなんてと独りごちながら歩く歩く。蔵の並ぶ町並みを抜け、川を渡る。ふらふらと歩いていると小さな古書店を見つける。お店に入る、本に出会う。食べ物に“食べごろ”があるように、本にも“読みごろ”があるというのは前にも書いたけれど、居並ぶ本のなか『西瓜糖の日々』が煌いた。

西瓜糖の日々 (河出文庫)

西瓜糖の日々 (河出文庫)

わたしが出会ったのはハードカバー版。棚から抜く。表紙が手に馴染む。ぱらぱらと捲る。冒頭「いま、こうしてわたしの生活が」がすんなり身体に入ってくる。読みごろだ、そうわかった。読みごろは本が教えてくれる。先ほど「お店に入る、本に出会う」と書いたけれど一工程、「本が呼ぶ」が抜けていた。「本が呼ぶ、お店に入る、本に出会う」が正確な順番。しあわせな読書体験は自分が本を選ぶのではなく、本に呼ばれるところからはじまることが多い(あくまでわたしの場合)。天候、気温、シチュエーション、なにをとってもこの日ほどの「西瓜糖日和」はないと思う。


 なおも蔵の間を抜け、蔦の絡まる建物の裏手、小路を入り山道をのぼってゆく。8センチヒールだなんて馬鹿なものを履いてきた(しつこいようだけど20年ぶりなんだもの、綺麗になったと思われたいでしょう)ことを心のそこから後悔した。地図がなくてもわかった、だだっ広い場所で彼のいるところ。風、立ちぬ。ぶわりと吹いた生暖かな風に乱される。いてもたってもいられない、この気持ちを何と言えばいい? 


 本を読むシチュエーションが色々とあるように、本を読み始めるタイミングにもいろいろなものがある。わたしは「ここからどこかへいきたい」ときに本を手に取る癖がある。癖というのも少し変だけれど。山に登るような格好じゃなかったし、地べたに座り込んで読書するような格好でもなかった。ましてやそこは墓場、人が見たら変に思う。でもこれはわたしなりの弔いだった。失われた20年を埋めるための、ささやかな儀式。

いまでは、すべての死者たちをガラスの柩に納め、川底に葬る。そして、墓には狐火を入れる。だから夜になると、墓は光を放ち、わたしたちはいろいろなものを見ることができる。


 ガラスの柩だったら良かったのにね、と話しかけてみる。もしそうならわたしはあなたがどんなふうな大人になったのか見ることができたのに。川底にいるのと狐火が入ってるのとで、うまいぐあいにフォーカスがかかるはず、そんなに恥ずかしがることもない。あなたはきっとわたしが見えている。でもわたしにはあなたが見えない。なんて不公平。だからこの本を開く。

 わたしが誰か、あなたは知りたいと思っていることだろう。わたしは決まった名前を持たない人間のひとりだ。あなたがわたしの名前をきめる。あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。
 たとえば、ずっと昔に起こっていたことについて考えていたりする。――誰かがあなたに質問をしたのだけれど、あなたはなんと答えてよいかわからなかった。それがわたしの名前だ。
 そう、もしかしたら、そのときはひどい雨降りだったかもしれない。それがわたしの名前だ。
 あるいは、誰かがあなたになにかをしろといった。あなたはいわれたようにした。ところが、あなたのやりかたでは駄目だったといわれた――「ごめんな」――そして、あなたはやりなおした。それがわたしの名前だ。

 

 わたしの心に浮かぶこと、それは彼のこと。即ちこれは彼の物語。彼の声で読めれば良かったんだけれど、彼の声をわたしは思い出すことが出来ない。20年前に別れた人の声を思い出すことが出来る人はいったい何人いるのだろう。ましてやその人と言葉を交わした回数が少なかったら? その人が寡黙な人だったら? 名前は思い出せる。容姿も思い出せる。でも、それだけ。そんな記憶、写真を眺めるのと何ら変わりがない。自分の記憶力のなさをこういうときに恨めしく思う。せめてここにいるときだけは、彼のことだけを考える。元気にしてる? 最近そっちはどう? そんな会話の延長で聞いた話しを装って。


 アイデスという町は脆くてつめたいものに感じられる。その「つめたさ」は決して嫌なたぐいの「冷たさ」ではない。なんというか、しずかなつめたさなのだ。手で掴むと体温でじんわり溶け出してしまいそうな。色の変わる太陽、喋る虎、ガラクタを拾うのが好きな少女。1つ1つを抜書きすれば幸せなお伽話のようだけれど、それらは薄い膜で覆われている。その膜が放つ微かな死のかおり。まだ途中、彼と離れるのが嫌でわざと時間をかけて読んでいる。

 アイデスでは、どこか脆いような、微妙な感じの平衡が保たれている。それはわたしたちの気に入っている。

静謐な場所、いつかわたしもいたのかもしれないその場所で彼が幸せに生活していることを望む。(歩)