その68 幻と出会う一冊。 

願いごとを聞き届けてくれる妖精は、どんな子どもにもいるものだ。しかしながら、自分でした願いを思い起こすことのできる人は、ごくわずかしかいない。だからまた、のちに自分の人生を振り返って願い事の成就をそれと認められる人もまれなのだ。
  ――ヴァルター・ベンヤミン「冬の朝」

 きどき、この言葉のことを思い出す。つぎつぎに何かを欲しがりながら生きてきて、いつのまにか願ったことすら忘れていることが自分にありはしないだろうか、と。多くの願いは、自分がそんな願いごとをしたことさえ忘れた頃に叶えられていたとしたら。

 このごろ私が願うことは、好きな場所を見つけること。それもできれば、誰もいない場所がいい。親しい人が死んだときに、ひとりでそこに行ってじっとしていられる場所を見つけておきたいと思うのだ。

 そんなことを考えるようになったきっかけは、堀江敏幸氏の「熊の敷石」という小説の一節にある。

 私たちが立っていたのは、海面から三、四十メートルほどもある切り立った崖の突端だった。

 フランスに逗留中の「私」は、写真家である旧友ヤンに連れられて、モン・サン・ミシェルを見晴るかす崖にたどりつく。

「ここがぼくのいちばん好きな場所だ」
 私は黙っていた。答えようがなかったのだ。
「なにか言ってくれ」とヤンが大声で言う。
「すばらしい」私も負けないほどの声で、叫ぶように応じた。
「ほかには?」
「ここから思いっきりカマンベールでも投げてみたいね」
「カマンベール?」
 それまでまっすぐ海を向いていた顔が、泣き笑いのような眉でこちらを見ている。私は右腕を抱き込むように腰を落とし、崖から落ちないよゆっくり回転しながら投擲姿勢を作って、四十五度の角度で見えないチーズの円盤を投げた。

熊の敷石 (講談社文庫)

熊の敷石 (講談社文庫)

「無知な友人ほど危険なものはない。賢い敵のほうが、ずっとましである」というラ・フォンテーヌの寓話を題材にとったこの小説は、フランスに仕事で滞在する「私」が、異国の友ヤンと旧交をあたためる話のようでいて、話をしているうちにいつのまにか友人の心に棲みつく暗い過去を引き出してしまう「私」はじつはヤンにとって「無知な友人」だったのではないかという疑いにいたる苦い小説でもある。人と交流することの温かみ苦みがないまぜになって読み手の意識に迫ってくる作品だ。
 この「熊の敷石」という小説を、はじめ私は好きになれなかった。芥川賞を受賞しているからって、面白いとは限らない。吉田修一の『パーク・ライフ』よりも『パレード』のほうがずっと面白いと、私は思う。同じように堀江氏だってこの短篇より「スタンス・ドット」とか「おぱらばん」のほうが全体としてすぐれた作品ではないかと、いまでも思う。
 けれどもあの「ここがぼくのいちばん好きな場所だ」という一文が頭に焼きついて離れない。だから私はこの小説に何度も帰ってきた。そして、読むたび、私もきっとあんな場所を見つけてやるという野望を燃やすのである。 
 はじめてそう決心してから、もう三年経つが、あの小説に匹敵する風景はまだ見つかっていない。どだい日本でモン・サン・ミシェルに勝てる風景を見つけようというのが間違っているのかもしれない。でも、好きな風景画はひとつ見つかった。宮城県立美術館に収蔵されている松本竣介の「白い建物」という絵。『気まぐれ美術館』を片手に洲之内コレクションを見たくて行って、いちばん印象に残ったのでポストカードを買って家に帰ってきたあと、堀江敏幸氏の『郊外へ』の表紙に同じ絵を見つけた時の衝撃は、いまでも忘れることができない。
郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

 小説や映画、絵のなかになら、好きな風景を見つけることは難しくない。作り手が見た幻がその作品のなかに映っているからだ。幻というフィルターを通して現実を見ること。意識と対象のなかに最適な距離を見つけること。その定規が見つかるころに私は願いごとを覚えているだろうか。(波)