その66 つまらない戦争の話。

 争を描いた小説が苦手だ。
 生と死が隣り合わせであることを身近に感じさせてくれる戦争、その最中にあっては無数の出会いと別れが生まれ、鮮烈な愛や憎しみと悲しみがやりとりされ、人生は実にドラマチックである。淡々とした日常を生きる僕らは劇的な物語に酔ってしまうけど、一方で「戦争もの」を面白がったり興奮している自分が嫌いだ。そして、戦争を分かった気になっている自分の浅はかさが怖い。
 しかし、戦争とは本当に華麗で悲惨でドラマチックなものだろうか?

 「戦争もの」ではお約束といえるゼロ戦も原爆も特攻隊も空襲も出てこない。この本で描かれるのは、日本が負けたあと始末だ。敗戦時に軍人として300万、民間人として300万、あわせて600万の海外にいた日本人が国に戻るまでの研究だ。
 話は南方に取り残された日本軍の話から始まる。ガダルカナル島をはじめとした激戦の模様はいろいろな形で伝えられているし、「玉砕」という強い言葉が一人歩きして、南方の日本軍はすべて壊滅的な被害を受けたように錯覚してしまうが、進攻のスピードと兵力温存を意図してマッカーサーがおこなった「飛び石作戦」により、スキップされた島では「いくさ」をさせてもらえず、後方で飢餓やマラリアとの戦いに明け暮れした例がはるかに多いという。ラバウル島のように司令官の指示で早期に開墾農耕を初めて自給自活に成功した例もあるが、環境がそれを許さなかったり視野の狭いトップがいた島では多数の餓死者を出した。

 無節操な兵力のばらまきをやった結果として、おかしな現象がいくつも現出した。たとえば「戦地」と称する地域に派遣されながら、戦いの気配さえ感じないで、農耕自活にいそしんでいる兵士がいた一方で、逆に兵士を送り出した本土の家族がB29の爆撃を受けて、家を焼かれ、多くが命を落とした。そのため敗戦後、戦地にいる日本兵の方が、焼け野原になった日本の家族を心配することになった。

 ポツダム宣言を受諾して日本が降伏したからといって、すぐ祖国に帰れるわけではない。武装解除から捕虜としての収容所生活にかけては、どこの国との戦場にいたかによって大きく異なった。ソ連軍の侵攻にあった満洲の悲劇は広く伝えられているが、余裕ある国力と国際正義の守護者を自認していたアメリカ、蒋介石の「恨みを報いるに徳を以てせよ」の訓示に基づいた中国は恵まれていたものの、イギリスなどヨーロッパの連合国には復讐の傾向が強く、マレー半島での十万を越す強制労働など、終戦があたらしい戦いのはじまりになることも多かったという。天国と地獄、それを決めるのは「運」だけだった。
 そんななか、オーストラリア軍の管理下のラバウル収容所では、司令官以下が若手将校や下士兵の将来を考え、教育・職業訓練などに取り組んだというのだから驚く。本格的な教科書まで編集して授業はおこなわれ、農耕生活と勉学の両立が図られた。


 敗戦直後、政府の海外にいる日本人に対する本音は「すぐには帰ってこないでほしい」というものだった。ただでさえ疲弊し、混乱の中にあるこの国に、六百万もの人間が戻ってくれば、取り返しのつかない混乱に陥るのではないか?
 家族の下に帰せばいい軍人はまだいいが、邦人は家族ごと移住し、しかも日本を長く離れていることが多く、戻るにも戻れない場合が多い。そんな彼らに政府が生活を保障し職を与えなくてはならない。
 しかし急変する世界の情勢は悠長なことを言っておられず、復員・引揚げ作業は混乱の中で進められた。日本の艦船にGHQの貸与船をあわせたピストン輸送が実施され、帰還作業は昭和21年3月から6月ごろにかけてピークを迎えた。4年はかかると見られた引き揚げは、わずか1年半で早期帰還可能者の85%に祖国の土を踏ませた。新しい日本は、そこから始まった。


 戦争は降伏で終わったわけではない。戦闘は間もなく止んだかもしれないが、文中あるように「列車を降り、家の玄関の戸を開け、背中の荷物を畳の上に降ろした瞬間が、ほんとうの戦争の終わりを意味した」のである。もちろん、一人ひとりの精神や日本人の思想の上での戦争の終わりは、ずっと先のことになる。その間繰り広げられたのは、派手な「戦い」ではなかった。砕け散った日常のかけらを集めて作り直すための、膨大な「作業」の積み重ねだった。
 戦争とは、実につまらないものなのだ。(藪)