その65 新しいマッチョのために。

 18歳で実家を出てから、29歳になるまでのおよそ10年間、意識して男性優位主義を批判する思想を自己にインストールすることを課してきた私が最近感じるのは、もうこれ以上マッチョを批判する必要はないのではないか、という事である。国家を憂い、国のために会社のために男同士の出世競争に勝ち家を守り嫁や子には強権的に振る舞いスナックのホステスに優しくしてもらう、というタイプの男は世界にとって有害であるという思想にそんなに魅力を感じなくなってきた。とはいえここで、今いったような男を魅力的だといっているのではない。世界を憂い、個人の自由獲得のために他の誰にも真似出来ない専門技術を獲得し友人と自分の時間を守りヤンキーを蔑視し芸術と動物に癒される男に疲れを感じているのだ。

 こんなことを思ったのも、社会学宮台真司と批評家東浩紀の対談『父として考える』を読んだからだ。このふたりに共通しているのは、従来の「父」が破綻したあとの「社会」「表象文化」を研究テーマにする仕事で、社会的に認知されたという点。宮台氏は戦後の核家族制度からはじかれて街に出た「援交少女」たちのフィールドワークを行い、東氏は現実社会に絶望しアニメ/ゲームを通じて世界の回復を求めた青年たちが関心を寄せた作品を文化史に位置づける仕事を行った。つまり、どちらもこれまでの父親像の限界、家族制度が生み出した悲しみを熟知しておきながら自分が父親になることを引き受けた人物、ということだ。
 ふたりは「それでもなお」父親として生きる事を選んだのか。あるいは、父になることによって自分のこれまでの思想を捨てきってしまったのか、そのあたりに関心があって、読んだ。

父として考える (生活人新書)

父として考える (生活人新書)

 この対談集の白眉は、人と人とがつながるためには、ナルシシズムやロマンチシズムも必要だと語っている点にあると思う。少し引用したい。

 宮台 複素数は、実部と虚部からなっていて、虚部は、実部から見た場合には存在しない数ということになります。つまり、存在する数(実部)と存在しない数(虚部)から成り立つ数ですね。
 人間関係も複素数なんだということを自覚してほしいんです。恋人であれ妻や夫であれ、場合によっては親友であれ、本当はかくあってほしいというロマンチシズムがあるのは当然で、それがなければ深いコミットメントなんてできないけど、それに合致する要素を実際に持つかどうか——理想に合致する現実があるかどうか——は、いつも疑わしいんです。
 
 東 虚数は存在しないけど、存在すると仮定することで現実の計算が可能になる。同じようにロマンチシズムとリアリズムも対立するものではない。ロマンがなければ現実は動かない。ロマンチシズムを導入することがリアリズムであることがありうる。ロマンなんてないんだよ、といい募ることがリアリズムであるわけではないのです。
 これは人間関係の問題に限られませんね。僕が最近、自戒を込めてずっと考え続けているのは、僕から下の世代がつくり上げたいわゆる「ゼロ年代の批評」と言われ続けている流れは、ロマンチシズムの破壊みたいなことばかりやりすぎたのではないか、ということです。特にロスジェネ以降は、これがリアルだ、これがおれたちの現実だ、だからもう夢なんて見ていられない、という主張ばかりなんですね。大学院もリスクだし恋愛もリスクだと。なるほどそれは局所的には正しいのかもしれないけど、みなが同じ認識に到達すると、いわゆる合成の誤謬が起きて、社会のほうが何も動かなくなってしまう。
 
(対談から一部省略して抜粋)

 私はこの部分を読んで、ふたりが結婚し、子供をつくった理由がよくわかった。と同時に、大学生のころ両氏の著作(『絶望から出発しよう』と『存在論的、郵便的』)を読んで影響を受けた私自身、無意識に感じていたことを言語化されたような喜びを感じた。

 パターナリズム(おせっかいな父親主義)を否定しないマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』がベストセラーになったことを考えても、2010年のいま、私達はあたらしい父親像を探しているように思える。そういえば村上春樹の『1Q84』にも、初めて主人公の父親が出てきたし…。男には、遺伝子の配達人という役割以外にもガチな役目があるのではないか、と感じる今日このごろ。(波)