その48 頭に血が上ったときに読んでみた本。

 臭い話をします。
 鳩山首相の支持率が、面白いくらい落ちている。選挙で盛り上がったのはひとつ前の夏のことなのに、遠い昔のようだ。トップを信頼し続けることができない、というのが鳩山さんの人間性に起因するならすぐ辞めてもらうだけなのだけど、僕ら日本人は安倍さん、福田さん、麻生さんと、四人続けて熱狂を持って総理の座に迎えながら最後に見放すという、軽薄な政治的態度をくり返している。一目惚れしてつき合っては「私にはふさわしくないわん」と相手をポイする女性(男でもいいけど)のようなもので、そんな人が「幸せになれないのはなぜかしら」と嘆いていても、答えは「どんな人にも長所はあるのだから、もうしばらく我慢してみなさい」というものだろう。ですよね?
 もっとも政治の不安定を愛するかのような浮気な国民性は、僕らに限ったものではないようで、見回せばブームを起こして当選したアメリカのオバマ大統領も、韓国の李明博大統領も、台湾の馬英九総統も、みな低い支持率にあえいでいる。そのくせどの国民も「リーダーシップの欠如」「行動力のなさ」を理由にあげるのは興味深い。安定した政治を望むなら、何より必要なのは支持者たちの安定した信頼だろうと思うけどな。鶏が先か卵が先かみたいな話ですが。
 そこで今回は、現代新書の名著をもとに、議会制民主主義国として最長、31年ものあいだ首相の座にいたシンガポールリー・クアンユーの例を取り上げてみよう。

「頭脳国家」シンガポール―超管理の彼方に (講談社現代新書)

「頭脳国家」シンガポール―超管理の彼方に (講談社現代新書)

 街が国家そのものであるシンガポールには、良いイメージを持つ人が多い。東南アジアの混沌とした国々(タイのドンパチだって今に始まったことではなく、歴史をひもとけば年中行事のようにクーデターの起きている国なのだ)に比べれば、産業は先進的で、経済のレベルは高く、都市も繁栄と清潔を兼ね備えたものだという。しかし、半世紀近く前にシンガポールがマレーシアから独立を余儀なくされたとき、当時のリー首相は「後背地も、大きな国内市場も、天然資源もない都市国家が生き延びるのはほぼ不可能」と涙ながらに国民に語っている。
 そんなシンガポールが選んだのは、国民の強烈な管理体制であり、徹底したエリート政治だった。たとえば野党の存在は事実上認められない。リー首相曰く

「何が正しいのかを決定するのは我々である。国民が何を考えているかは気にすることはない」

 であり、選挙で野党候補を当選させたりしたらそのエリアの行政サービスは停止(!)される。高速道路を造るつくらないどころの騒ぎではない。また、テレビとラジオは国営のみで、新聞による政府批判は許されない。
 日本人の貯金好きは有名だが、シンガポールでは福祉サービスと公共事業のために、給料の一定割合(本が書かれた20年前で25%)が天引きされ、強制的に貯蓄される。また、人の行動の80%が遺伝で、20%が教育で決まるとされており、

「大卒女性が大卒男性と結婚して優秀な子供を産むのは、国民としての義務である」

という発言がされたこともある。言うだけなら日本でも似たような大臣がいたけど、シンガポールのすごいところはそれが国家戦略になるところで、大卒の母親には有休や税金還付がある一方、低学歴の母親には避妊手術の奨励が行われたという。さすがに不満の声が上がったようで、現在どうなっているかはわからないが。

 まさに、自由と引き替えの繁栄である。それでも、あなたは強いリーダーシップに基づく管理社会の到来を期待しますか?
 僕は反対である。断固として反対する。「完全な自由」なんていうものは幻想だけど、自由は人間にとって大切な価値だし、今の日本は世界的にみてもかなり自由な国のはずだ。まずはその有難みをかみしめることが大切だ。
 国家にしても組織にしても、単一的なものにたいして多様性というのは、ノイズの発生が避けられない以上、パフォーマンスが低い。だが、単一的なものはうまくいっているときは良いのだけど、一度転ぶとどうしようもなくなる。
 日本は引き続き、自由の道を歩むべきだ。ただ、自由は無目的と無責任を生むことが多い。自由が本来持つパワーを活かすためには、志と責任が必要だ。僕らのいる場所を少しでも良くするためには、「この国をよくしよう」という志と、「自分にやれることをやろう」という責任を、僕ら一人ひとりが持たなければならない。「お上が何とかしてくれる」というお客様精神・お子様根性を捨てなくてはならない。トップがダメなのはみんなのレベルが低いからなのだから。そしてそれは国家だけではなくて、あらゆる集団に言えることだろう。 
 ニュースに憤慨して、興奮気味にまくし立ててしまいました。血圧高いんだから気をつけないとダメなのに俺。 (藪)