その49 結婚する、あるいはしない僕らが読んでおきたい本、再び。

 婚して、子供がうまれると「幸せいっぱい」なのだと、みんなが言う。それ自体、否定しようのない事実だろうし、もしうっかり部分的にでも否定しようものなら「幸せいっぱい」でない人々たちからの呪詛をザブザブ浴びて、炎上させられるに違いない。だから、心のなかで思うだけにしておこうと思ったけど、やっぱりここに書いておくことにする。そういう、外的な環境の変化は、あまり幸せには関係ない。私自身、結婚する前には結婚にたいする期待もあった。でもそれは未知のものに対するあこがれであって、宇宙に行ってみたいとか、いっぺん死んでみたいとかいう種のあこがれと同じなのではないかと思う。

 できたばかりの、昇り調子の会社の株をもっている人たちは、いつその会社が「上場」するのか、たのしみにしているらしい。私は、結婚ってその「上場」に似ているんじゃないかと思う。結婚すると、その二人の関係の価値は、社会的にはずっと値上がりするけど、上場したからといってその会社の商品がよくなるわけではないように、二人の愛情や、幸福感が直接強まるとは限らないと思う。もし、結婚によって幸せを感じることができたとしたら、それはずっと前から二人のあいだにあった幸せと、構造的には同じであるはずだ。

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 いきなり婦人雑誌の恋愛コラムみたいなことを書いてしまったが、こんなことを書いたのも、今日話をしようと思う本が結婚、恋愛ど真ん中の本だから、なのである。田辺聖子の『孤独な夜のココア』。奥付を見ると、初版が発行されたのは昭和58年とあるから、著者が55歳、私が2歳のとき。書いたときの著者の年齢、そして読者である私との世代差。にもかかわらず驚くのは、表現のみずみずしさだ。この短編集に収録されている12篇をあっという間に読み終えて、ジュンパ・ラヒリの新作だと言われても納得してしまいそうな現代性と普遍性を感じた。たとえば、こんなやり取りに。

「うーむ。そうかなあ。しかし、ほんまいうと、斉ちゃんぐらいの年ごろの女の人が、ぼく一ばん好き。ぼく、二つちがいの姉がいてね。仲よしなんや。そのせいか、一つ二つ年上、という女の人が、いちばんええな」
「くそッ。この年上キラーめ」
 千葉クンは大声で笑った。
(「雨の降ってた残業の夜」)

 この本を買うきっかけになったのは、最近『電子書籍の衝撃』という本で話題になっているジャーナリスト佐々木俊尚氏のインタビュー記事であった。

書籍が電子化されて、過去の本も現在の本も同様に扱われるようになれば、新しい本がいらなくなると言えます。 たとえばインターネットがこれからどうなるとか、今起きていることを残すための本はもちろん必要ですが、恋愛小説のようなものは田辺聖子で十分じゃないかと考える人も出てくるんじゃないかということです。
ブクログによるインタビューより。記事全文はこちら

 この記事を読んで、そういえば綿矢りさもどこかで、田辺聖子が大好きといってたっけ。田辺聖子の小説って昔読んだことあるけど、どんな感じだったかな…と思っていた矢先、たまたま出張でいった兵庫の流泉書房という本屋さんの店先で大きなパネルと一緒にこの本が並べてあるのを見つけた。帯をみると「解説:綿矢りさ」とある。仕事の終わりに寄った書店だったので、うれしくなってすぐにレジに走った。

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 この本についていろいろと紹介したい部分があるのだが、読んだことのないものの細部をどんなに面白いと語られたって、話を聞く側はその重要さに気づくことはできない。それに、すごい表現に初めて出会うときの喜びをここで奪ってしまうのも悪い気がする。だからあとは、この本を読んで感じたことをつれづれに書いてみようと思う。
 ときどき、いまの自分の心境で中学校や高校の頃にもどれたら、ずっとうまく恋愛できるだろうな、という意味のない思考をしてしまうときがある。おそらくこの小説は、そんな気持で書かれたのではないかと思う。著者の田辺さんが、ずっと昔に体験した20代の終わり頃のまぶしさを、当時は目をあけていられなかったけど、いまなら見える。そんなふうに思って書いたんじゃなかろうかと、読みながら何度も感じた。
 「孤独な夜のココア」という言葉がどこにも出てこない、この『孤独な夜のココア』という短編集。主題ははっきりしていて、それは小説のなかに出てくるこんな言葉。「恋というものは、生まれる前がいちばんすばらしいのかもしれない」。
 そうなのだ。本当にそうだと思う。だれかのことを幸福に誤解できる時間。そういう間違いが私たちの人生の充実感を支えていることに深く気づかされる短編集です。

孤独な夜のココア (新潮文庫)

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 この本が好きな人は、きっとこの本も気に入ると思います。(波)
見知らぬ場所 (新潮クレスト・ブックス)

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