その44 サクラマウ季節に読みたい本。

 年の受験シーズンももうすぐ終わりのようだ。自分が受験生の頃は戦場にいるような思いをしていたし、子供が受験となれば金銭的な負担から気遣いまで大変だろうけど、ちょうど狭間にいる身にとっては物見遊山である。家族、仕事、宗教、相方などあればあったで憂鬱なものの、なければないで寂しいものは山ほどあるが、試験もその一つだろう。
 特にペーパーテストには終わった時の達成感、最後は運に任せるギャンブル性、結果がはっきり出る快感などが組み込まれており、終わりない日常を生きざるを得ない僕ら社会人にはなかなか味わえないものばかりだ。


 世界一の試験といえば、やっぱり中国の「科挙」だろう。587年宋の時代にはじまってから、1904年に清朝が取りやめるまでの恐ろしく長い伝統。誰も数えようとすら思わない総受験者数とそのための試験システムの巨大さ。そしてすべての試験をクリアし「進士様」になってしまったあとの猛烈な階層上昇!
 科挙の模様については浅田次郎の『蒼穹の昴』や、池上永一の『テンペスト』(こちらは琉球王朝の話だが)で描かれているものの、科挙を体系的に研究しまとめられた本は実は本場中国にもないらしい。ところが、なぜか日本人の手で書かれた奇書をご紹介しよう。

科挙―中国の試験地獄 (中公文庫BIBLIO)

科挙―中国の試験地獄 (中公文庫BIBLIO)

 長い人生も結局は他人を選び他人に選ばれること(言い換えれば、他人を捨て他人に捨てられること)の連続ではあるが、山ほどいる志願者の中から一掴みを選ぶ(大勢を落とす)には、また違った大変さが発生する。百人から一人と選ぶのと、一万人から百人を選ぶのでは、割合こそ同じでも、手間や面倒は後者の方がはるかに多いだろう。


 受験者にとっては、単純に試験の多さと厳しさになる。
 まず科挙を受けるためには国立学校の生徒でなければならない。そのために受けるのが学校試で、県で行われる県試→府で行われる府試→本試験ともいうべき院試の三段階。
 全部クリアしてからようやく科挙で、科試→郷試→挙人覆試→会試→会試覆試と乗り越えて、最後に皇帝じきじきに行う殿試に合格すれば、晴れて進士様となるのだ。


 それでも受験者は、自分の利益のためにやっていることだからまだいいが、大変なのは試験官のほうである。「天子の政治の手伝いのために、人民のなかの最も賢明なものを登用する」ことがコンセプトだから、それがためには万人の中から徹底して公平に人物を採用しなければならない。
 ところが人間は誘惑に弱いので、結果が同じならなるだけ楽をしようとする。カンニング、替え玉、ワイロ…試験を実施する側にとっては果てしなき不正行為との闘いである。
 たとえば受験生の提出した答案はそのまま採点しない。表紙に書いた名前などを封して、座席番号だけを残して写しを取る。それを校正係が写しに間違いないかチェックする。写しをようやく採点官が審査(つまり採点官は受験者が誰かわからない)して、クリアしたものを原本と照らし合わせる。そこで初めて合格者が判明するのだが、写しと原本は北京の文部省に送られて再度点検されるという念の入れようだ。不正が見つかれば受験者だけでなく試験官もただではすまない。


 科挙は導入当時として優れたシステムだった。貴族の政治から官僚の政治への移行が1400年も前に始ったのである。歴代の天子は、科挙の維持に努力した。

 中国歴代の政府は、少なくとも天子自身はあくまで試験の公正を守り通したかったのである。そして世間のほうでもとやかく非難しながらも、科挙に多大の関心を示し、社交界第一の話題に取り上げたのは、天子の公正な態度に一縷の期待を寄せていたためにほかならないのである。

 しかし、物事にはかならず裏表がある。一つは科挙に頼るあまり、公学校の整備が一向に進まなかったこと。ごく一部のエリートが政治をすればうまくいく、という考え方は、近代という国民総力戦の時代に中国が大きく出遅れる原因となった。もう一つは科挙そのものが、あくまで文学の試験であったために、科学の時代に対応できなかったことである。
 それでも、中国人は科挙を手放せなかった。なぜならあれだけ大きな国では、「人が人を選ぶ仕組み」は絶対にうまくいかないからである。人間が十人いるだけでも派閥が出来るのに、十億人いたらどういうことになるかは、清朝崩壊以降の近代中国史を見れば明解だろう。あまりに大きい組織では、公正に人を選び抜く制度など、そう簡単にはできない。ここに、大きすぎる国の悲しみを見るのである。


 内田樹いうところの「辺境」であるわが国も、科挙の遠い影響を受けている。「入る時は難しいが出る時はラクラク」といった入学試験重視の姿勢は、中国や日本だけでなく東アジアの中華文明圏共通の宿命らしい。これは試験制度そのものの持つ矛盾である。本当は人をどう育てるかが重要だとわかっているのだ。しかし、お金も時間も有限である以上は育てる人を選ばなければならない。そのためには試験が必要になる。すると試験だけ乗り越えればいいという結果に陥る。結局人が育たない…試験とは目先の利益にとらわれるあまり、本来必要なものを見失ってしまう、人間の空しさを体現したシステムなのかもしれない。(藪)