その45 恋人ができても、子供ができても捨てない本。

 く女性にとって結婚し、子育てをすることは重大な決断に違いないけれど、文化系男子にとってもその決断は容易ならざるものがある。体育会系パパはなんだか頼もしいが、文化系パパというのはこの世に必要とされていない気がする。そのときかれは、文化を捨てて単なるパパになるか、文化を守って家庭に居場所をなくすかの二択を迫られるのだ。
 かくして今週、私の書棚では大粛清が行われた。もうこれまでのように文学のアロマに淫している場合ではない。哲学の鎧兜を愛玩しながらシングルモルトをなめなめしている暇はないのだ。これまで後生大事に守ってきた知識と感情の鋳型たちは紙オムツと一緒に業火に灼かれ高井戸の空高くへ昇っていった。さようなら、私の本よ!!

さようなら、私の本よ!

さようなら、私の本よ!

 と、やや大げさに書いてみましたが、子供と一緒に暮らしはじめたので、これまでのように本を読む時間も少なくなるだろうと思って本とCDを大量に処分しました。いままでは、いつか必要になるかもしれない、と思って中々捨てられなかったのですが、もうそんな時は永遠に来ない、ということがはっきりとわかったわけです。本当に自分にとってかけがえのない本って何だろうか。そう自問したとき、残る本ってのは意外と少ないもんだなぁと思いました。

 ときどき雑誌なんかに「無人島に持って行く本」という特集が組まれているのを目にすることがありますが、実際に準備したうえで無人島に行くことなんて中々ないわけで、大事な本を選ぶときは「小菅の東京拘置所に入ったとき差し入れを頼みたい本」とか「子育てしながらでも読みたい本」あたりにするとリアルに選べる気がします。

 そんな私の「捨てない本」殿堂入りを果たしているいくつかの本のうちで、今日おすすめしたいのは須賀敦子さんのエッセイです。亡くなって12年がたった今でもなお、須賀さんの著作への評価は高まり、広がり続けているように思えます。昨年、彼女の担当編集者だった湯川豊氏による『須賀敦子を読む』というはじめての作家論が読売文学賞を受賞したことも、その証左だと言えるでしょう。

須賀敦子を読む

須賀敦子を読む

 須賀さんのエッセイの魅力は、文章の確かさと友愛の美しさ、この2つが大きいと思います。村上春樹の小説に「完璧な文章など存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね」(『風の歌を聴け』)というややきどった名言がありますが、しかし、須賀さんの文章を読むと、これは完璧な文章に他ならない、という確信にとらわれることが何度もあります。生物学者福岡伸一氏も雑誌の対談でこんなふうに語っていました。

川上「好きな作家は?」
福岡「一人挙げろ、と言われたら須賀敦子さんですかね。僭越な言い方ですけれど、読んでいて私ならこう書く、という箇所が一か所もありません。完璧な文章です」
(「文学界」2008年8月号 川上美映子氏との対談より)

 
 友愛の美しさ、というのは、須賀さんのエッセイの多くが、遠く離れた人物の横顔や、後ろ姿を描いたもので、彼女の感傷に流されず思いやりに満ちたまなざしが、読む人にある種の宗教的感動を呼び覚ます、という意味です。ちょっと長くなりますが、イタリアの友人、ダヴィデ・マリア・トゥロルド神父について書かれた部分を引用してみます。

「それにしても、ダヴィデはよく人と衝突した。『ガラス屋に踏みこんだ象みたいだ』と、彼のことを友人のガブリエーレがよくいった。『そっと歩くことをあいつは知らない』巨躯、といえる体格で、こころもち膝をまげ、まるで突進する消防車みたいに、風をきって歩く。黒い修道衣を旗のようになびかせ、すねたこどものように、口をとがらせて。『あいつは経験によって賢くなるということがない』とこれもガブリエーレがいっていた。“Born yesterday”という本が売れたころ、彼のことをそう呼ぶ人もあった。昨日生まれたばかりじゃあるまいし。無邪気というのか、ばかというのか。彼が教会の上長と衝突したという話がひろがるたびに、友人たちはそういって彼に腹をたて、それでいて、彼のことをしんそこ気づかうのだった」(「銀の夜」)

 男女の恋愛や家族愛について書かれた小説や映画、男同士、女どうしの友情について書かれた漫画や演劇は沢山ありますが、国籍も性別も身分もこえた友愛について書かれた作品は、そう多くないと思います。そしてこの「そう多くない」という事実は、じつは深刻なことなのではないか? 須賀さんの文章を読むたび、私はそういう思いに駆られます。

 まだ須賀さんの文章をひとつも読んだことのない人へ。時間のないのはわかります。どれを、といわれたらまず『ミラノ・霧の風景』の「遠い霧の匂い」、『コルシア書店の仲間たち』の「銀の夜」、『トリエステの坂道』の「セレネッラの咲くころ」、この3つのエッセイをたち読みしてみてください。河出文庫の全集で読めますが、白水社のUブックス版の装丁もなかなか捨て難い魅力があります。(波)

須賀敦子全集 第1巻 (河出文庫)

須賀敦子全集 第1巻 (河出文庫)