その37 セーヌの畔りで読みたい本。

 人は水辺が大好きである。
 パリを訪れたら、セーヌ河畔のカフェで一服、実にけっこうだ。誰もが赴くノートルダム寺院セーヌ川中洲のシテ島に位置するし、オルセー美術館エッフェル塔など観光の核となるところは多く、セーヌの畔りや程遠くないところに揃っている。
 川は町の母である。古来、川は敵と向き合うにあたっては自然の防壁となり、陸上交通の発達する前は重要な交通路であった。パリもその例に漏れず、セーヌ河畔の集落を攻略したローマ軍が都市化を図ってから、発展がはじまった。
 パリ市の紋章には「たゆたえども沈まず」の言葉が記されている。ところがこの街は、水辺にある宿命として、本当にあきれるくらい沈んできた。本書は日本人研究者がセーヌ川の洪水史をまとめた奇書である。

パリが沈んだ日―セーヌ川の洪水史

パリが沈んだ日―セーヌ川の洪水史

 確かに川は放っておけばときどき氾濫する。
 しかし、都市が発展するにつれて、洪水はますます酷くなっていった。たとえば川に橋を架ければ、橋げたの手前は水の勢いが激しくなるし、橋げたの後ろには土砂がたまる(水車も同じ)。がっちりした堤防を造ればいざ決壊した時に悲惨なことになる。住民が増えてゴミを投げ捨てれば川が浅くなる。下水路を整備すれば水位の上がったときに大逆流を起こすし、地下鉄に水が入ればそれが水路となって何キロも離れたところまで洪水が広がる。人間というのは実にめんどくさいものだ。
 なかでも、ちょうど百年前の1910年に起きた大洪水は、記録的なものだった。

 悲劇は川の合流点の低地にある動物園から始った。

 一番被害をこうむったのは白クマだった。…泳ぐことも得意で、寒さをものともしないはずの白クマであったが、水からあがって休む場所がなくなっていた。人々はこの運動場に水があがってくるのをおもしろそうに見ていた。白クマは後ろ足だけで立ち上がり、壁に前足をつけて上に居る人に向かって助けを求めた。…うろうろするだけしかない動物たちが多いなか、カバだけが幸せの絶頂だったという。


 のんきに構えていた人間たちは、華の都を彩るレストラン、キャバレー、劇場に押しかけ、真夜中まで遊んでいたというが、奢れる者は久しからず、まもなく繁華街も沈んでいくのだ。
 まず困ったのがゴミの処理。しかし処理場がセーヌ川沿いにあるためすべて閉鎖。困った警視総監は「増水した川の水の圧力で、下流へ運ばせてしまおう。パリのゴミを海まで流せれば御の字だ」と文字通り「水に流す」作戦を決行し、橋の上に集合したダンプカーから、人が熊手を使って川の中へとゴミを掻き落としていった。

 パリ市民は仰天した。泥水に混じってすさまじい量のゴミが流れてきたからである。…水が勢いよく流れているうちはよかった。川の水位が下がり始めると、流れの力も衰え、市内の河岸、下流の堰、そして川沿いの集落の川岸には、ありとあらゆるゴミが漂着した。パリより下流の市町村は猛然と抗議の声をあげた。

 こんな話もある。深夜響き渡った大爆音に、市民は水の流れを妨げないよう橋を爆破したのだと思ったのだが、

 しかし、現実はまったく違っていた。それは橋の爆発音ではなく、工場の爆発音だった。川の近くに建っていた化学工場内にあった原料と、侵入してきた水が化学反応を起こし、大爆発がおきたのだった。火は隣の建物に燃え広がり、消防隊は消化のために何時間も水をかけ続けるという皮肉なことになった。

 なんだか、一つひとつが喜劇のようである。日本の場合、川の流れが急なので上流の増水が一気に押し寄せるだけでなく、河口にある都市では海からも逆流するため、水害は地獄の様相を呈する。一方でパリは広大な平野のど真ん中に位置するため、洪水の規模の割には人命の被害が少ないためかもしれない。それでも電気、ガスや路面電車など都市インフラは数ヶ月に渡ってマヒしたのだから、経済に与えた影響は馬鹿にできない。
 僕らの足元はいかに不安定なものだろう。そして街を築き、それゆえ新たな災害に見舞われる人間の悲しさとおかしさを、著者は冷静に眺め、ユーモラスに描き出している。
 人の営みを記すのが文学だとすれば、学術書だってれっきとした文学になるのだ!(藪)