その28 墓前で必要な本。

 ルバムに写真が増えたのは久しぶりだ。まわりに一人二人、シャッター押すのが大好きといったタイプがいると手持ちの写真は増えるものだが、偶然なのかそういう人を選んでいるのか、僕の親しい人たちはあまりカメラを常用しない。
 墓前の写真である。高校陸上部の同期五人が思い思いのポーズを取っている。墓に眠っているのは同じ陸上部のオーミだ。五年前の春、僕が会社に入るのを待っていたかのように死んでしまった。「善き人は帰ってこなかった」は『夜と霧』の言葉だが、まさにその通りで、もう根っからのいい奴だった。だから仕事の忙閑もばらばらだし性格の合う合わないもある陸上部の同期が、毎年一回、石川の山奥にある彼の墓に集う。


 墓前で手を合わせて思うのは、今年もなんて無様でみっともないことばかりやらかしたのかという恥ずかしさである。それでも大まかに決算すれば生きてて楽しいという申し訳なさである。同期たちがなにを思っているのかは知らない。
 墓を掃除して、それぞれ線香をあげて、誰が言い出したのか記念撮影となる。オーミがすぐそばにいることを前提に、「今年こそ写真にうつるんじゃないか」でもまだ彼の姿を見られないのは、信心が足りないからか。


 僕らの多くは「無宗教」といわれる。西欧を旅しては、立派な教会建築にささやかなコンプレックスを抱き、選挙前になると元気いっぱい宗教政党の活動に気味悪くなる。そんな「無宗教」な僕らが、ごく自然な振る舞いで線香をあげ、故人に手を合わせられるのはなぜなのだろうか。
 そんな問いに答えてくれた一冊。

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく)

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく)

 ぼくたちが死者を祀った場所を繰り返し訪れるのは、「何かが聞こえるのだが、何を言っているのか聴き取れない」からです。残響に耳を傾ける。立ち尽くす。死者たちに代わって語る権利はぼくたちにはない。でも、だからといって死者たちの声に耳を傾けることを止めることは許されない。

 この一文が、僕の追悼という行いへの基礎を造っている。聖書も仏典も信じられない現代人が、生と死を考える上で必要なことは何か。死者を騙って自分に都合のいい言葉を吐こうとする連中が多い世の中だからこそ、大切な人に勧めたい本です。(藪)