その29 完全には治らない病を抱えた人に贈る本。
あと数年で三十歳になろうとする私にはわかっている。そう、人に何かを伝えるようとするとき、思いの強さと伝わりやすさにはあまり関係がないということが。
たとえばいま、一人の男子中学生が同級生に告白しようとしているさまを想像してもらいたい。男子の気持は、同級生への漠然としつつも猛烈な好意と、十年間寝かせた年代物の性欲でぱんぱんに膨れあがっている。はっきり言って、私が相手だったらそんなものは願い下げである。百歩譲って、男子の告白を受け入れることになったとしても、それはあくまで、勝手に自分がその男子を好きになっただけの話であって、熱い思い云々というのはまったくもってどうでもいい。
しかし悲しいことに、男子は自らの熱い思いこそが恋愛成就のパスポートだと信じ切っている。自らのキツい匂いの思いに正確な形を与えることこそが、正しい告白の形だと信じて疑わないのである。
何がいいたいのかというと、好きな本を紹介するとき、私の精神状態はだいたい上の男子中学生と同じだということだ。いつだってアイ・ラブ・ユー、モア・ザン・ユー。少しだけ片思い。というわけで今日は、私の青年期の余暇の相当部分を捧げている大好きな作家、トム・ジョーンズの本を、伝わらない気持ち込みで紹介したい。
- 作者: トム・ジョーンズ,岸本佐知子
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/10/02
- メディア: 文庫
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不謹慎な例えをすれば、これは覚醒剤みたいな本である。ダウナー系ではなく、アッパー系である。読むとすっきり元気になれる。いや、実際どうかは知らないが。
ともあれ、痛みや苦しみを祝福するという姿勢が全作品に貫かれているこの短編集は、病んだ人々、特にその苦しみから自分の力で逃れることのできない人々が救いを見出すことの出来る本だと思う。たとえば、二番目に出てくるベトナム戦争ものの傑作「ブレーク・オン・スルー」には、こんな記述が出てくる。
「ジェンセンにあのラビットパンチでぶちのめされるまで、バギットは崖っぷちぎりぎりのところに立っていた。奴はジェンセンに叩きのめされて死の一インチ前までいったが、その一インチの中に一時の救いがあった」
戦地の最前線に出ているアメリカ人兵士ふたりが、生死に関わる殴り合いをしたあとの一節である。トム・ジョーンズ小説の醍醐味は、この「死の一インチ前の救い」が見える啓示の瞬間にあると思う。多くの人が避ける痛みの世界にジョーンズの登場人物はノーガードで突進していく。そして気持いいくらいに打たれ、傷つき、それでも目を開けて生きている。
『拳闘士の休息』には、自分ではどうしようもない力に翻弄される人々がたくさん出てくる。暴力に憑かれ、戦場やボクシングのリングの中でしか生きられない男たち、性欲に憑かれて破滅的なまでに女性遍歴を重ねる男、男の肉体的魅力に魅かれて会社を二週間欠勤する女、駄目な女に何度騙されても懲りずに溺れて行く優男…、みんなそれぞれが、自分の病的な部分に振り回されながら、敢然とその病んだ人生を生きている。その高潔さは読者の感動を誘う。しかし同時に、登場人物の病んだ部分のヤバさが憐れみに傾きがちな感情をドライな笑いに変える。
「ジェンセンが小瓶のなかから”グリーニー(緑色)”とみんなが呼んでいる強力アンフェタミンを手のひらに二錠あけ、オンディンに手渡した。『ほい、万病の特効薬。あんた二日酔いのときは熊みてえに不機嫌だからな』……
瓶が最後にバギットまで回ると、奴はカプセルを一気に六個も口に入れた。六個なんて前代未聞だった。シンが笑って言った。『バギットはヘリコプターいらない。バギットひとりで飛んでいけるよ』
バギットも笑った。『ヤウゥゥゥ!』
やがてみんながげらげらと笑い出した。オンディンまでもが笑っていた。グリーニー六錠とは笑い事じゃなかった。あまりにもヤバすぎて、笑うしかなかった」
ジョーンズの小説について考えていると、あたまを過る本の一節がある。
「社会学者のニクラス・ルーマンは『おかしなことは何も起りません』という期待を『慣れ親しみ(安心)』と呼び、『いろいろあっても大丈夫です』という期待を『信頼』と呼びます。『安心』は脆弱ですが『信頼』は強靭です」
これは、宮台真司が新書『日本の難点』で、コミュニケーションについて語ったくだり。ジョーンズの『拳闘士の休息』は、まさにこの<信頼のもつ強靭さ>が表現された作品だと思う。一九九三年に書かれたこの本が、今年になって文庫で復刊されたのは「いろいろあっても大丈夫です」という価値観が、いまとくに求められているからではないか。なんとなく、そんな気がする。(波)
- 作者: 宮台真司
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2009/04/01
- メディア: 新書
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