その17 結婚する、あるいはしない僕らが読んでおきたい本。
たまらなく暑い日が続くので、涼しげなシーンから始まるこの短編をご紹介します。隠れたファンの多い、静かで整った作品です。
この時、プールの向こう側を、ゆるやかに迂回して走ってきた電車が通過する。吊革につかまって立っているのは、みな勤めの帰りのサラリーマンたちだ。
彼らの眼には、校舎を外れて不意にひらけた展望の中に、新しく出来たプールがいっぱいに張った水の色と、コンクリートの上の女子選手たちの姿態が、飛び込む。(プールサイド小景)
- 作者: 庄野潤三
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1965/03/01
- メディア: 文庫
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結婚して15年の夫婦だが、夫からうらぶれたバアの話や会社勤めの苦痛を聞くにつれて、相手のことをなんにも知らないことに妻は気づく。不明は不安を経て不信に変わる。女がいるのではないか? 会社の愚痴だって女にしていたのでは? 着実に営んできた家庭という足元が崩れていくようだ。
自分が今、ガスの火をつけたり、その火の上からフライパンを外したりしているこの動作は、これはいったいどういう意味を持つことなのか? どういうわけで、自分の手がこんな風にまるで決まったことのように忙しく動いていくのだろう。
この短編は、ごくふつうの夫婦に訪れた危機と評されることが多いけど、描かれるのは妻の疑惑や虚無ばかりで、夫の内面は丁寧に避けられている。夫の発言は妻に求められたものだけで、本当かどうかわからない。家庭崩壊に際して、彼には謝罪も焦りもみられない。クビになった使い込みだって、真の理由は明かされないのだ。
二人は不平等である。徹底して不平等である。夫は会社で妻は家、家庭の危機はあたかも妻の危機ですらないような書き方なのだ。そのくせ、夫には作中設定を与えられている(青木弘男氏、織物会社の元課長代理、大正3年生まれの40歳)のに、妻には名前すらない。フェミニストは怒り狂うだろう。しかし、歴史的事実として、サラリーマンと専業主婦という組み合わせは、戦後の一時期社会の主流を占めた。もちろん、今はとても多数派といえないだろう。別に女権主義者ががんばったからではなく、世界と社会と産業構造の変化によるものだが。
妻は祈る。久しぶりに出かけた夫を思い、「帰って来てくれさえすれば…」と祈る。眠れない夫に、おまじないと称して、睫毛の先と先とが重なるようにして、まばたきをする。
自分の睫毛のまたたきで相手の睫毛を持ち上げ、ゆすぶるのだ。それは不思議な感触だ。たとえば二羽の小鳥がせっせとおしゃべりに余念がないという感じであったり、線香花火の終わり近く火の玉から間を置いて飛び散る細かい模様の火花にも似ている。
暗い夜の中で黙って彼女は睫毛のまばたきを続ける。それは、慰めるように、鎮めるように、また不意に問うように、咎めるように動くのだ。
どんなモロ出しの官能小説より、美しく官能的な一節である。
不平等は甘美である。この妻の、いじらしいほどの可愛らしさは、二人の不平等ゆえに成立している。僕らがチャーミングな妻(あるいは夫)を欲したところで、夫婦が平等なパートナーであることを基本的に要求する現在では、ないものねだりなのだ。
この作品は昭和29年、半世紀以上前の作品だが、僕らが読んで「50年前とは思えない」と思うのだとしたら、かつての不平等な関係への憧れに根ざしているのかもしれない。いや、決して父権主義ではなく、現実的に男が女を養うなんてもはやできないだろう(女性の方がはるかに仕事できるんだし)。ただ、僕らが均質な社会を生きているがゆえの哀しさはあると思うのだ。平等はときに苦しい。
前は結婚を決意した友人に島尾敏雄の『死の棘』を勧めて嫌がられていたのだけど、悪趣味を反省し今はこの本を手渡している。
もちろん、これは過去の話だ。では、僕らが今読むべき結婚の話は………暑さで頭がボーッとしてきたので、また今度にしますか(あッ、逃げた!)
(藪)