その11 たまには話題に乗って読んでみた本。

 行りもの、行かせて頂きます!
(なんだか鉄砲隊に向かって日本刀で切り込みに行く心境だ。)

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

 読者の多さに比べて、村上春樹について書かれたもので、これは!という文章が少ないのはなぜだろう。能力ある書き手たちが、村上作品の口当たりの良さを敬遠しているのがひとつ、もう一つは氏の生む物語がきわめてシンプルであるためだろうか。
 今作「1Q84」は、特にクリアである。ジョージ・オーウェルが「1984年」で警告した、強大な権力者「ビッグ・ブラザー」はすでに消滅した。しかし代わりに「リトル・ピープル」なるものがこの世に存在する。

「リトル・ピープル」は目に見えない存在だ。それが善きものか悪しきものか、実態があるのかないのか、それすら我々にわからない。しかしそいつは着実に我々の足元を掘り崩していくようだ。

 ここまで書かれては、読み違えや深読みのしようがない。そもそも、村上作品の大きな構造は似ていて、
1、なんらかの技術を持った個人が、(人はそれぞれ独立しており)
2、完結した生活を送っていたのに、(スタイルを持つはずだが)
3、トラブルに巻き込まれて、(必ずシステムとぶつかるので)
4、血縁以外のつながりを求める。(解決策を見つけるべきである)
 それだけのことであり、この間のエルサレム賞のスピーチでも「もしここに大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と明言している。だから、システムに呑み込まれそうになって悲鳴を上げる多くの人に支持される。

 メッセージのために書かれた物語は退屈だし、物語のために作られたメッセージは陳腐である。では村上春樹の小説がなぜ面白いかというと、小説というフィールドを縦横に活用しているからだ。
 今ここでない世界を旅する冒険譚の魅力、的確な比喩と音の力を活用した言葉、スタイルを確立した主人公への憧れ。村上春樹くらい、当たり前のことを当たり前にやっている作家はいない。当たり前を論じるのは難しい。

 「1Q84」はきわめてタフでクールな物語である。「1984年」と違った「1Q84年」の記憶は、くどいほど二人の主人公双方の側から語られ、補強される。そして余計なもの、それは登場人物であれ設定であれ、その多くはカットされる。この作品が最高傑作なのかは僕に判断できないが、氏の中でもっとも堅固で頑丈な作品であることはみんなに同意してもらえるだろう。
 我々がいるのは2009年である。その間僕たちは阪神大震災オウム事件を経験し、リトル・ピープルは増殖し、2つの月を眺めた人たちを放置してきてしまった。これほどはっきりと語るのは村上春樹としては珍しい。僕は、還暦を迎えたひとりの作家が、着地点を見極めて高度を下げているような印象を受けるのである。

 普通の話ですみません。(藪)