その12 人生の掛け率を下げたいときに読む本。

 リー・フランキーの映画評『日本のみなさんさようなら』に、忘れられない一節がある。

 人にはそれぞれ日常のドラマレートがある。人生の中で一度でも千点一万円の大デカピンで打った者は、それ以下のドラマレートではシビれなくなるが、ずっと千点20円のレートで打ち続ける者は、ずっとシビレっぱなしでいられる。要するに、この映画に何を感じるかで、観る人のレートが確認できるということだ…… ……淡々とした中に豊かさを見出せる者と、黄金の一発を打つ為に死に急ぐ者。映画も博打も人生も、低いレートでシビレることができる方が幸せであるに違いない。(是枝裕和監督の映画『幻の光』について)

 要するに「眠たい文化」は人の価値観をはかるリトマス試験紙になりうるという話である。文芸の世界で例えるなら、直木賞は「レートの高い」作品に与えられ、芥川賞は「レートの低い」作品が受賞する傾向にあると思う。刺激の強さと感覚の繊細さ、先を読ませる推進力と文章そのものに立ち止まらせる垂直の力の違いといってもいいかもしれない。

日本のみなさんさようなら (文春文庫PLUS)

日本のみなさんさようなら (文春文庫PLUS)

 リリー氏は「低いレートでシビレることができる方が幸せ」だと書いている。北九州の炭坑町という日本屈指のハイ・ステイクスな場所から武蔵野美術大学というスーパーファインな場所へ進学し、両者の価値観の違いを目の当たりにした氏ならではの意見だと思う。ふつう、きつい刺激に囲まれた場所に生きる人は退屈な文化のことなんて歯牙にもかけないし、反対に上流階級の文化に慣れ切った人は、芸術の細かな違いについて熱く語りはしても、その退屈さの効用まで意識する必要はないからだ。

 ちなみに福岡の労働者階級の家に生まれた私は、大学に行くまでボサノヴァを聴いたことがなかった。たぶん聴こえていても頭に入らなかったのだと思う。ボサノヴァは眠たい。ゆったりした気分でないと聴いていられない。上履きにうずらの卵を投げつけられたり、人の頭でソプラノ・リコーダーを叩き割ったりしていた義務教育時代の私に聴けといっても聴こえないのであった。中学生の頃はビーズ、ミスチルマイラバ、布袋である。当時流行っていたオザケンの良さも大人になるまでちっともわからなかった。

球体の奏でる音楽

球体の奏でる音楽

 閑話休題。今日はすでに1冊紹介したのでもうやめにしたいのですが、じつは続きがあります。余裕のある人は少しだけ付き合ってください。

 2008年末に出版された『あなたには夢がある』という本がある。著者はビル・ストリックランド、訳者は『社会を変えるを仕事にする』の駒崎弘樹ペンシルバニア州の貧しいスラムに育ったひとりの黒人青年が、貧困者向けの職業訓練センターを建て直し、全米随一の社会起業家となるまでを語った自伝である。

 この本には、ひとりの貧しい青年が、学校をドロップアウトしてギャングになる友人たち、失業しつつ酒を飲んで暴力を振るう親たちの支配する世界から、フランク・ロイド・ライトの建築やアントニオ・カルロス・ジョビンの音楽を尊重する世界の住人へとどのように移行していったかが克明に描かれている。どれほど精神的に貧しい人でも、金銭的に恵まれない人でも、芸術によって変わることができる、というのが著者のメッセージである。この信念を形にするために、経営破綻した職業訓練センターの再建に取り組んだ著者は、500万ドル(4億9000万円)の大金をかき集めてフランク・ロイド・ライトの弟子を務めた建築士にセンターの建物を発注し、訓練所の敷地内に噴水を作り、ランの花を植え、コンサートホールを設置してジャズ・ミュージシャンたちを招く。ほとんど狂気の沙汰である。しかし、そんな彼の行動力の源泉にあるのはつねに「美へのあこがれ」なのだ。

 私たちが(職業訓練)センターに美しいものを置くのは、外見を飾るためではない。私たちが成果をあげるためには、それが不可欠だからだ。美しいものは心の栄養になる。生徒たちは不信感と絶望感に襲われて、心が動かなくなっている。彼らを変えるには、そんな心を動かすことから始める必要がある。生きていることに喜びを感じていない人に、よりよい生き方を教えることはできない。だからこそ、私はこういう場所をつくり、そこを芸術作品や陽の光、キルト、花でいっぱいにしたのだ。

 こんなふうに著者の主張だけを引用すると、あまりのポジティブさに寒気と眠気を覚える人もいるかも知れない。けれど私はこの本を買った夜、読みすすめるにつれ目がさえて来て、最後の1ページまで眠れなかった。米国のスラムという「過激な世界」の限界と悲しみを知り抜いた著者が、芸術と努力によって生まれる「退屈な世界」の輝きを切実に思うときの心の渇きに打たれたからだ。

 「あんなものは退屈だ」という意見は、音楽、映画、本について語られる時に使われる常套句である。けれどもそんなふうに語る人は、静けさや退屈さ、味の薄さが刺激に疲れた田舎者たちの避難所でもあることをどれだけ知っているだろうか。

 最近自分の人生がギャンブルじみてきて、それに違和感と倦怠を感じている人、花火のようにパッと咲いて散る島国ヤンキー的玉砕主義の美学にはつき合いきれない…と思っている人は読んでみて下さい。きっと得るものがある筈です。

あなたには夢がある 小さなアトリエから始まったスラム街の奇跡

あなたには夢がある 小さなアトリエから始まったスラム街の奇跡

 芸術は身を滅ぼすものだと思ったら大間違いだ!と、私はこの本に励まされる思いでした。(波)