その8 夜が来る前に読む本。
酒場のネタ、酔っぱらいの伝説なんて、面白いに決まっているのだ。
面白い話というのはつまり普通ではない話なのだから、誰でも失敗談の一つやふたつはあるアルコール、セックス、旅についてなら簡単に書けてしまう。おまけにこれらはムードや感傷でいくらでも味付けができる。
ただ、だんだん飽きが来るのも事実だ。それは話し手や書き手がネタの良さに甘えてしまうからである。暴論を飛ばせば、美人の話がつまらないのと同じですな。ごくまれに美人で面白い子がいると、声をかけようとしては撃沈を繰り返しているのが、僕の有様です。
違うちがう、そうじゃない。
酒にまつわるエッセイは数多いし、山口瞳『酒呑みの自己弁護』のような傑作もあるけど、今回おすすめするのは東直己のススキノエッセイです。
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「でさ……さっき、このビルの階段を上りながら、突然、思い出したんだ」
「誰なの?」
「……下の子供の、担任の先生だ」
「え……」
「一度、父親参観日の時に、個人懇談で話をしたことがあるんだ」(略)
ナシヤマさんはガックリと首を垂れて、頭を掻きむしり、「あああああ」と呻いた。
これは豊富なススキノでの滞在時間と莫大な投資、同志への連帯感と作家の冷めた目が生み出したものであることには論を待たないが、忘れてはならないのは新聞連載がベースということである。(北海道新聞は偉い!)
僕はボブ・グリーンが好きで読み耽ったことがあるけど、日本の大新聞のコラムはつまらないものと相場が決まっている。低めに見積もって99%がクズである。常識にとらわれすぎ、サービス精神の欠如も原因だが、何より書き手が技を持たないのだ。
その点東さんのエッセイは、毎回決まった分量(文庫本でわずか2ページほど)に、主役の登場からドラマまで盛り込み、きちっとオチを付ける、これぞ文筆家の職人芸である。「型にはまる」という言葉は、今の日本では悪い意味に使われるけど、ほんとの芸事というのは、決まった型の中でいかに洗練させるかを競うものである。型を壊す資格を持つのは型を極めた人だけだろう。
少なくない量のアルコールに浸ってきて、「酒なんて飲めなければよかった」と思うことがある。二日酔いの泥沼にはまったとき、締め切り前に限って誘惑に負け結果追い込まれたとき、自分が飲んだくれている間にまわりが着々と出世していくときなど。でも、この本をめくって異郷の同志の活躍に胸躍らせる喜びに比べれば、ナンボのものですか。
実はシリーズを通して読むと、大切な教訓が潜んでいることに気づくだろう。酒場の掟である。一つは大切な物を壊したり人を殺めたり、取り返しのつかないことはしてはならない。もう一つが難しくて、たまには他人に笑って許されるような、ちょっとした失敗をしなくちゃならないということだ。(いつもやっていると人権を剥奪される。)掟を守れない人は、どんなにたくさん飲もうと、どんなに長っ尻しようと、子どもに過ぎない。
さあ、あとは実地教習あるのみ。わが街のナシヤマさんと会いに、陽が落ちたら夜の街へ繰りだそう!(藪)