その7 人間やめちゃったあなたに贈る本。

 高校生の頃、発狂して虎になった人の話を国語の教科書で読んだ記憶があるが、なんでまたあんな文章を読まされたのかいまだに謎である。朝起きたら昆虫だった人の話も習った。やはり謎だとしか思わなかった。あとになって、それが日欧における文学の古典だったということを知り、当時は大学で文学部に通っていたこともあったので社長に挨拶する感じでもう一回読んでみたが、結局「たぶん偉いものである」という認識で終わった。

 あの本に出てくる人たちのように、科挙の試験を受けたり、気の狂うような事務作業に明け暮れたりしなくても人間をやめる簡単な方法がある。それは「マラソンに出る」ことだと思う。先日私は「荒川市民マラソン」に出場し、25キロ地点で発狂した。そこから先は、バナナレーズンおにぎりりんごシャーベットレモンをむさぼり食い、ザバス汁を飲み、松村雄基と爆風スランプが頭によぎったことしか頭にない。ゴール後は数時間の満足に浸ったが、達成感の波が過ぎ去ってみると、それまでの人間だった自分に対して「ごめん、俺、あのときどうかしてた」とあやまりたい気持になった。

 ふつうマラソンなんか走ると精神力がついて、今後の人生における苦難に打ち勝つ糧か何かになるのだと思うが、私の場合そこに思わぬ落とし穴が待っていた。走行中に人間をやめてしまったことで自分が信じられなくなったのである。マラソンを走り終えたあとの自分は、花見の席で酔って後輩にキスしてしまったが翌朝冷静になって気まずくなった中堅社員のような気分だった。

 またしても前置きが長くなりましたが、きょうはそんな「人間やめちゃった」経験をされて恥ずかしい方に一冊、ユクスキュルの名著『生物から見た世界』をおすすめしたい。これは1936年にドイツ人の動物学者が、動物にとってこの世界はどのように見えているかについて記した本である。

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

 この本の効能は、端的にいってダニの気持がわかることだ。ダニの視線から世界を見た後に我と我が身を振り返ると、なんだかんだ言って自分は人間なんだとわかって目が覚める。俺はもうダメだ、ダニ以下なんじゃなかろうか…といった曖昧な不安も、ダニってこんなに壮絶なのか、ということがわかると吹っ飛ぶのである。

 ダニ(マダニ)の何が凄いって、エサが見つかるまで死んでいられる奴がいることである。食物がないときは森の空き地の枝先にじっとぶらさがったまま一種の冬眠状態に入って待ちつづけ、近くに哺乳類が来たら目覚めてその上に落下し生き血を吸って産卵する。そんなSFみたいな生物がいるのかと思うが、この本によれば、18年間絶食していたダニが生きたまま保存されていた例もあるという。ダニは目が見えないが、体全体にある光覚で「高所」までよじのぼり「哺乳類の酪酸の匂い」を感じると枝から手を放し、落ちた先が「温かい」ことがわかればそこに頭を突っ込んでたっぷりと血を吸う。産卵前のダニは、光覚と嗅覚と温度感覚の3つしか感じないらしい。

 動物はそれぞれ、自分のとる行動に応じて世界を形作っている、というのがこの本の論旨である。完全な客観的世界というものは存在せず、自分の立場によって認識された「環世界」というのがあるだけだと著者のユクスキュルは主張する。

「野原に住む動物たちのまわりにそれぞれ一つずつのシャボン玉を、その動物の環世界をなしその主体が近づきうるすべての知覚標識で充たされたシャボン玉を、思い描いてみよう。われわれ自身がそのようなシャボン玉の中に足を踏み入れるやいなや、これまでその主体のまわりにひろがっていた環境は完全に姿を変える。カラフルな野原の特性はその多くがまったく消え去り、その他のものもそれまでの関連性を失い、新しいつながりが創られる。それぞれのシャボン玉のなかに新しい世界が生じるのだ」(8p)

 念のため書いておくと、この本は人間の世界観で動物を判断してはいけないよ、人間の世界もまた相対的なものなのだよ…なんていう当たり前の認識を補強するために使う本ではない。重要なのは「世界」というのは自分が何かを行うときにはじめて意味を持ち、そのつど生まれ変わるという事実を思い出すことである。またこの本を読むことで、新しい行動目的を産み出すことができるのは、限られた動物だけだということもわかる。私たちはつねに人間でいることはできないが、人間になれる瞬間があるだけマシなのかもしれない。

 この本を読むときは、ぜひBGMにゆらゆら帝国の「ミーのカー」というアルバムに入っている「人間やめときな’99」を。気分が高まることうけあいです。(波)

ミーのカー

ミーのカー