その9 時間も気力もないときに読む本。

 CDは60分あればだいたい1枚聴けるし、映画なら120分くらい座っていれば1本見終わる。いっぽうで本というのは、ときに薄い本でも1冊読み終えるのに半日かかったりする。文庫本なら、レジで支払う金額はCDのアルバム1枚よりずっと少ないけれど、買ってから自分が支払う自由時間のコストはずっと高い。
 本の営業という仕事柄、どうしたらもっと本を読んでもらえるかといつもいつも考える。最近よく思うのは、無意識にであれ、人が本を敬して遠ざけるのは時間の事情が関連しているのではないか、という事だ。

 だから、普段本を読む習慣のない人に、おすすめの本は?と聞かれると答えを探すのはたいへんだ。短編ひとつでも30分くらいかかったりするから、3分で聴ける曲をひとつ聴いてみて、というのと比べるとえらくハードルが高い。たった小説1篇でも、かかる時間でいえばクラシック音楽をすすめているのも同然である。どんなにそれがいい、といっても読み通すためには、それなりの心の準備と余裕が必要だと思う。

 それでは、ポップミュージック1曲のようにひとに薦められる小説はないか…といろいろ考えてみたところ、私がいままで読んだなかでそのイメージに一番近いのはリチャード・ブローティガンの『芝生の復讐』である。この文庫にはすごく短い散文が62篇入っている。1、2ページで終わる話も多いので、忙しいから長過ぎて読めない、という事態だけは避けられそうだ。

芝生の復讐 (新潮文庫)

芝生の復讐 (新潮文庫)

 日本でショート・ショートといえば星新一のSFが有名だけど、あんなふうにオチがついたりはせず、アイデアや感情のかけらがふっと放り出されて終わるのがブローティガン作品の特徴である。
 『芝生の復讐』を、タワー・レコードの視聴機の前に貼ってあるPOP風に紹介すると、

つらい現実が照らし出した、美しすぎる幻想のアメリカ風景。
おすすめ「太平洋ラジオ火事のこと」「サンフランシスコYMCA讃歌」「談話番組」「オレゴン小史」
もし最初にどれを読むか迷ったら「太平洋ラジオ火事のこと」を。


 ところで、私が最初に読んだブローティガンの本は『西瓜糖の日々』だった。その3節目の文章「わたしの名前」を読んだときの衝撃は忘れられない。

「わたしが誰か、あなたは知りたいと思っていることだろう。わたしはきまった名前を持たない人間のひとりだ。あなたがわたしの名前をきめる。あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。
 たとえば、ずっと昔に起こったことについて考えていたりする。——誰かがあなたに質問をしたのだけれど、あなたはなんと答えてよいかわからなかった。
 それがわたしの名前だ。
 そう、もしかしたら、そのときはひどい雨降りだったかもしれない。
 それがわたしの名前だ」

 ブローティガン作品は、詩的、幻想性の高い文章と評されることが多いけれど、その幻想の後ろには必ず、現実にある悲しみや失望、落胆の薄暗いベース音が響いている。けして向こう側の幻想世界に飛んで行っておしまいという描き方ではないからきつい時にも読めるのだと思う。
 あまり思い入ればかりを書いても仕方がないから、この本について訳者の藤本和子氏が書いている文章を引用する。藤本さんはこの本を訳しながら悲しみに襲われると、洗濯機を回し、旦那さんに心配されないように、そのそばで声をあげて泣いていたそうです。

「『芝生の復讐』は、作者自身の悲傷感、挫折感、疎外感、そして同時に、生き生きとした驚き、喜び、感動、おかしさなどを読者に直接伝えることができる文体で書かれています。その特徴ははっきりしていると思います。作者が読者のすぐそばまできて、あなたという個人に語りかけているような印象を与えてくれるのです。あなたはそれによって、眠っているところを突然起こされたときのような、夢と現実の境界線があいまいな場所におかれてしまい、動揺させられることだってあるでしょう」(文庫版「ふたたび、訳者あとがき」より)

 こまぎれに読んでも面白い本ですが、もし、持ち帰って読もうという気がおきたら、ぜひ雨の日、家に1日こもってぶっ通しで読むことをおすすめします。BGMには魚、幻想性、父性の欠落、といった共通点から、フィッシュマンズなんか、どうでしょう。(波)

宇宙 日本 世田谷

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