その137 もうエッセイしか読みたくないあなたへ。

 の祖父はせっかちで、車を運転していきつけの中華料理屋「一品香」に行く際には必ず車中でその日の全メニュー進行を考えさせられた。店に着くまでに注文する料理を決めておかねば気がすまないらしいのだ。その遺伝子を四分の一程度引き継いでいる私もそこそこせっかちで、長編小説なんて本当はドストエフスキーくらいの歴史的評価がないと読みたくない。市町村名なら「津」がいちばん好きだ。だからこんなどうでもいいことを書いているとしだいにテンションが下がってくるので、本題に入る。

 面白いかどうかは最後までよく分からない与太話=小説を読む気がおきない時に私はよくエッセイを買う。そんな日が一年の半分くらいあるので必然的にエッセイばかり買っている。ただエッセイはなめられがちなジャンルで、有名な小説家やタレントがたいして面白くない雑文を書いてそれが発売されているという様な例も世の中にはたくさんある。だから素敵なエッセイを見つけるのはけっこう難しいというか、ヒット率を高くするためにはそれなりの狡さをもって選ばないといけない。そんななか、最近出会って心の芯にハードヒットした本が、物理学者の中谷宇吉郎が書いた随筆を生物学者福岡伸一が集成した『科学以前の心』である。

 中谷宇吉郎のことは知らなかった。1900年生まれ、1962年没。雪の結晶の研究で名をあげ、世界初の人工雪製作に成功。プロフィールにある「低温科学に大きな業績を残す」というフレーズがぐっときた。低温科学という言葉の響きの草食な感じに憧れる。
 でもこの人の随筆を読もうという気になったのは、やっぱり選者が福岡伸一だったからだ。新書『生物と無生物のあいだ』の随所に見られる福岡氏の言葉萌え感覚、ああこの人カタカナの並びにシビれながら書いたんだろうなという感じが私はとても好きで、それはたとえば「アンサング・ヒーロー」や「サーファー・ゲッツ・ノーベルプライズ」みたいな章題の付け方に顕れている。また福岡氏はかつて「文学界」の対談で、須賀敦子さんを文章の師として挙げていた。私も須賀敦子の日本語信者のひとりなので、これは間違いなかろうと思って買ったのである。
 果たして、その予感は当たりに当たり私はこの本を喜悦にうち震えながら読んだ。ページの上でめくるめく垂直の大騒ぎが起きた。ちょっと大げさに書いたが素晴らしいと思ったのは本当で、毎朝、起きて朝食を作る前か、通勤電車で座れたときに、二本ずつ読むのが楽しかった。文章に隙がなく、それでいて明るいユーモア感覚があるので読んでいてとても気持ちがよかった。冒頭の一節が象徴的だったので引用する。

 この頃新聞を見ていて気の付いたことは、スキーと雪の記事がこの数年来急に増してきたことである。主なものはスキー地の広告のようであるが、その他に純粋に雪と冬の山とを讃えるような記事もかなりたくさんあるように思われる。何でも東京は山の雑誌が十種ばかりも出されていてとにかくそのどれもが刊行を継続されているし、雪の朝は郊外電車がスキー車を出すという噂さえきくほどである。誰かがいわれたように氷雪を思慕するというような心情が吾々のどこかに秘められていて、その一つの現われと見られる現象であるかも知れない。もっとも日本人が脂肪質をたくさん喰べ、毛織物を一般に用いるようになったためかとも考えられる。

 『科学以前の心』というタイトルから、科学以前の心を私たちは取り戻しましょうみたいな内容かと想像した人は残念ながら違う。ナカヤさんは科学的な心の持ち主である。本のタイトルになった随筆「科学以前の心」には、この世には科学以前の心を持った人たちが多数暮らしているので、まずはそのことを自覚しましょうというナカヤさんの主張がある。

 非科学的というのは、論理が間違っているか、知識が足りないことに起因する場合が多い。どんなに間違っていても、とにかく論理のある場合には、その是正は可能であり、知識は零から出発しても、いつかは一定の量に達せしめることができる。しかし科学以前の考え方は全く質の異なったものである。それは抜くべからざる因習に根ざしているか、それ自身に罪はないがしかし泥のような質の無智か、または自分にも意識していない一種の瞋恚(しんに)に似た感情が、その裏付けをしている場合が多い。

 この文章が書かれた1941年と2013年現在を比べてみると、科学の考え方が世の中に及ぼす影響はずっと大きくなったかも知れないけれど、科学的な考え方をする人が世の中に増えたわけではなかろうと思う。では、科学的な考え方とは何か。上に引用した文章にあるように、論理的であろうとすること、正しい知識を得ようと努力することなのだろうか。それだけではないとナカヤさんは書いていて、その部分に私は大変感激した。

 本統の科学というものは、自然に対する純真な驚異の念から出発すべきものである。不思議を解決するばかりが科学ではなく、平凡な世界の中に不思議を感ずることも科学の重要な要素であろう。不思議を解決する方は、指導の方法も考えられるし、現在科学教育として採り上げられているいろいろな案は、結局この方に属するものが多いようである。ところが不思議を感じさせる方は、なかなかむずかしい。

 この世の中がどうやったら面白く不思議に見えるだろうか、という問いに誠実に向き合った科学者の文章を読むことは、例えていえば冷たい水で洗ったばかりの眼鏡をかけるような感覚で、とても気持ちがすっきりします。(波)