その131 絶対に読んでください、と言われた本。

 に薦められなくても読む本と、誰かに薦められなければけっして読まない本がある。単純にその本のことを知らなかったからというより、絶対に読んでといわれなかったら読まないような難しい本や、まじめな本がある。なるべくなら本は誰にも薦められずに読みたい。でも絶対に読んで、と言われたら、私はけっこう読んでしまうほうだ。

 絶対に読んで、と言われた本がある。言われたその日に買って、そのあと一ヶ月間読まなかった。他に楽しい本が沢山あった。それでもやっぱり、あの人が絶対に読んでというのだから読もうと思って、もう一度その人に会う前の日、午前三時に目覚ましをセットして、仕事に行く前と外出中の移動時間にがんばって読んだ。読んで、絶対に読んでと言った人の気持ちがわかった。それは、面白いとか、よかったという気持ちとは別の何かだ。

 『死の淵を見た男 吉田昌郎福島第一原発の五〇〇日』という本が、その本だ。東日本大震災直後、福島第一原発で原子炉にいちばん近いところにいた人々が、どんな風に事故に対応したかを描いたノンフィクションである。事故当時、福島第一原子力発電所所長だった吉田昌郎氏と、原子炉を操作する当直長だった伊沢郁夫氏のふたりを中心に描かれている。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日

 読み終えて残ったのは、このふたりを中心とした福島原発で働く人々への静かな感謝の念だった。非常用電源の保管場所が海面から十メートルの高さにあったために、津波によって水没してしまったことが、事故の被害を拡大させた。だからこの事故は人災だという説を聞いたことがある。もしそうなら、所長である吉田氏と、当直長である伊沢氏にも当然責任はあるはずだ。だからこの二人に対して私は憎しみを覚えてもいいはずなのだが、非常用電源が消失したあと、原子炉を冷やすためにこの二人がどれほど懸命に行動したかを読むと、そんな気持ちはまったく起きない。彼らがいなければ、原子炉格納容器爆発による放射能飛散、という最悪の事態が起きていた可能性だってあると知った。

 格納容器が爆発すると、放射能が飛散し、放射線レベルが近づけないものになってしまうんです。ほかの原子炉の冷却も、当然、継続できなくなります。つまり、人間がもうアプローチできなくなる。福島第二原発にも近づけなくなりますから、全部でどれだけの炉心が溶けるかという最大を考えれば、第一と第二で計二十基の原子炉がやられますから、単純に考えても、”チェルノブイリ×10”という数字が出ます。私は、その事態を考えながら、あの中で対応していました。だからこそ、現場の部下たちの凄さを思うんですよ。それを防ぐために、最後まで部下たちが突入を繰り返してくれたこと、そして、命を顧みずに駆けつけてくれた自衛隊をはじめ、沢山の人たちの勇気を称えたいんです。

 さらにこの本を読むと、事故の現場にいた人たちの名前や出身地、生い立ちが書いてあるので、いわば事故の顔が見えるようになる。するとこの事故を他人の責任として糾弾することが難しくなる。何か特別な悪意があって、この事故が起きたのではないということがわかる。意識しなかったことが罪なのだ。だとしたら、地震が起きるまで福島第一原発の危険性について意識していなかった私が、誰かを責めることなんてできるはずがない。

 著者はこの事故についてどう考えているか。冒頭にはこんな記述がある。

本書は原発の是非を問うものではない。あえて原発に賛成か、反対か、といった是非論には踏み込まない。なぜなら、原発に「賛成」か「反対」か、というイデオロギーからの視点では、彼らが死を賭して闘った「人として」の意味が、逆に見えにくくなるからである。

 また結末にはこんな記述がある。

「全電源消失」「冷却不能」の事態に対処するためには、多額のコストが必要だ。利益を追求する原子力事業者には、難しい判断だったに違いない。
 結局、日本では、行政も事業者も「安全」よりも「採算」を優先する道を選んだのである。それは人間が生み出した「原子力」というとてつもないパワーに対する「畏れのなさ」を表わすものだった。世界唯一の被爆国でありながら、その「畏れ」がなかったリーダーたちに、私はもはや言うべき言葉を持たない。

 私はこのふたつの記述を象徴的だと感じた。原子力発電所というのは私たちの気持ちの内部にある拡大への願望が具体化した装置だと思う。だから、拡大への意志という恐ろしい力に対して、是非を問うても仕方がないし、どんなふうに距離をとってつきあっていくかを、それぞれが決めるしかないように思う。誰をリーダーに選ぶかということより、自分のなかの拡大意志とどうつきあっていくかの方が大事だと、私は思う。

 この本を読んで、忘れられないエピソードを最後に挙げておきたい。この本の主人公のひとりである吉田氏は、事故発生時に現場へと向かっていく部下たちを「法華経の中に登場する”地面から湧いて出る地涌菩薩”」のイメージで見ていたという。彼はお寺めぐりが趣味で、若い頃から宗教書を読み漁り、禅宗道元の手になる『正法眼蔵』を座右の書にして仕事場にも常に置いていたらしい。
 耐えることが困難な極限状態にあって、人を支えたものが宗教思想だったということに、私はとても感銘を受けた。読みづらい本、誰かと話題にすることの難しい本であっても、自分をささえてくれる本を見つけておこう、そんな気持ちになりました。(波)