その119 放心の必要。

 売されるのを1ヶ月以上も待った本は久しぶりだった。出版情報紙「パブリッシャーズ・レビュー」の3月号をぼうっと眺めていたら、デザイナーの深澤直人さんが『建築を考える』という本の紹介をしていた。どの文章が、というのではないけれど、紹介文を読んだときに猛烈にこの本が買いたくなって、すぐさま手帳にメモをした。

建築を考える

建築を考える

 それから約2ヶ月後、この本が手元に届いた。このように直感で欲しくなる本というのは、なぜ自分にそれが必要だったのか、読んだ後になってわかることが多い。日常的に書店を回って、沢山の「おすすめ」に囲まれて暮らしているなかで、これはどうしても読みたい、と私を強烈に揺さぶったものの正体は何だったのだろうかと、考えてみる。

 ペーター・ツムトアという建築家の名前は知らなかった。当然、彼が作った建築を見たことはない。買った本を箱から出し、ページをめくると冒頭に白黒の口絵写真が3枚、載っている。どれもひどくピントがぼけていて、建築がよく見えない。建物を写したというより、建物のまわりの空気にピントを合わせて撮られたような写真。それから、目次を読む。ページをぱらぱらとめくる。そこには、ひとりの建築家が自分の仕事について、建築について、どこか訥々としたリズムで語る文章があった。ひとつひとつの文章は短く、文章の前に、アフォリズム集にあるような、小さなゴシック体の見出しがついている。

 私はこんな文章に、自分が求めていたものを知った。

 都市と風景との違いは、私にとってはおそらく次のようなところにあるだろう。都市は私を刺激する、ないし興奮させる。私を大きく、あるいは小さくする。自意識を持たせ、誇りを持たせ、興味を抱かせ、わくわくさせ、いらだたせ、怒らせ、あるいは怖じ気づかせる。対するに自然の風景は、私がそこに向かって心を開きさえすれば、自由とやすらぎを与えてくれる。なぜなら、自然には都市とは異なる時間感覚があるからだ。風景において、時間は壮大である。一方都市では、空間同様、時間も凝縮されている。

 ツムトア氏の仕事は、風景と調和した建築を作るために、労力を払うことである。ひるがえって自分のことを考えてみる。言葉。このところずっと、本を、とくに小説を読みたいと思えない自分に疑問を感じていたのだが、それは見渡せば住宅だらけの街のなかにうんざりするように、描かれた人工の言葉に疲れていたのだと思う。本の外側に、風景を見るように空白の時間を探し、自然のことばに触れることを、何よりも自分は必要としていたのだと、私はこの本に気づかされた。

 自身のなかに安らっているような物や建物をじっと眺めていると、私たちの知覚もふしぎに穏やかに和らいでくる。それらはメッセージを押しつけてこない。そこにある、ただそれだけだ。私たちの知覚は鎮まり、先入観は解かれ、無欲になっていく。記号や象徴を超え、開かれ、無になる。なにかを見ているのに、そのものに意識は集中されないかのような状態。そうやって知覚が空っぽになったとき、見る者の心に浮かんでくるのは記憶――時間の深みからやってくる記憶かもしれない。そうしたとき、物を見るとは、世界の全体性を予感することにもなる。理解できないものはなにひとつないのだから。

 ツムトア氏が空間のなかに風景を必要とするように、時間のなかに余白を求めて生きることの切実さに、私は思い当たった。ぼうっとすること。ただなんとなく休みたいというよりも、もっと積極的に自分の時間に風景を探すことを、この本は教えてくれると思う。(波)

<深澤さんの紹介記事は、下のリンク先で読むことができます>
http://www.msz.co.jp/news/topics/07655.html