その118 読む気がおきない本好きに捧ぐ。

 つ頃からか、本を読むのが難しくなった。本を売る仕事をしていて、本を読むことの意義は自覚しているつもりだったし、面白い本をすすめてくれる知り合いも大勢いて、本について語り合える友達もいるのに、本を読むのが難しくなってしまった。いままでは、本を読む時間を、あるいは時間を無理につくりたくなるくらい夢中になる相手をいつも探していたのに、本に対するときめきが失われてしまった。何を読んでいても、自分とは関係ないような気がして、あっさり本から目を上げてしまう。いつかまた本が読みたくなるのはわかっているけど、今は読みたくない。だから、そんな気持の人に何かすすめられる本はないか、考えてみた。

 本を必要としない人に私から言えることは「こんなに面白い本があるよ」ということだけで、他にはない。それはいつもここで書いているつもりだし、今日のテーマはちょっと違う。いまここで念頭に置いているのは、自分にとって本は大切で、なくてはならないと思っているのに、本のことを信じられなくなった人がいたら、どんな本をすすめたらいいか、ということです。

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

 2年前にこのブログで藪氏が紹介していたゼロ年代の想像力』という批評の本が、この私の「読みたくないモード」に効いた。理由は2つ。紹介されているものの多くが活字コンテンツではなくアニメ、テレビドラマ、漫画、ヒーロー番組といった非活字コンテンツだから。もうひとつはそういった非活字コンテンツ受容の必然性を活字で描いているから。

昨今の純文学の衰退は、文体という表現の空間の弱体化によるところが大きい。「文体」とは「国語」という明治政府による人工回路に依存するもので、それは国民国家的な「大きな物語」が後退した以上は、必然的に弱体化するのだ。そのため必然的に物語(構造)に重きを置くケータイ小説、キャラクターに重きを置くライトノベルなどが支持を広げることになる。

 このくだりがとても好きだ。「明治政府による人工回路」という部分が特に。つくづく考えてみると、この頃の私の悩みは「生き延びるためには明治時代に起因するシステムが有利だが、もはやそれには魅力を感じない」という倦怠感のようなものから生まれている気がする。そしてとりもなおさずそれは、近代システムとは別の、自分の頭で考えた生き方、人との関わりかたを生み出す必要性を感じているということでもある。

 抽象的な議論ばかりになったので、このへんでこれからを生きる上での指針となる想像力、として宇野氏が挙げているものを記しておきます。(谷川俊太郎風に)
 
 それは「木更津キャッツアイ
 
 それはドラマ版「野ブタ。をプロデュース
 
 それは「フラワー・オブ・ライフ
 
 それは「仮面ライダー電王
 
 それは「ラスト・フレンズ
 
 サブカル批評史的な位置づけからすると、この批評集は東浩紀氏の問題意識をアップデートすることを目的として書かれた本で、東氏が擁護した美少女ゲーム群の設定は「自己反省が強化するマッチョイズム」だと批判している。このへんのくだりが個人的にはすごく興味深かった。

批評の世界における東浩紀の出現とその劣化コピーの大量発生は、弱めの肉食恐竜たちが(実際には肉食以外には興味がないにもかかわらず)矮小なパフォーマンスで「僕らは草食恐竜です」と宣伝しながら、自分よりさらに弱い少女たち(白痴、病弱、強化人間など)の死肉を貪っているような奇妙な言論空間をサブ・カルチャー批評の世界に醸成した。この「弱めの肉食恐竜」たちの援助交際正当化を可能にしているものは、比喩的にいえばこの肥大した母性の圧倒的な力ではないだろうか。

 ここに出てくる「弱めの肉食恐竜」というフレーズが面白い。愛と幻想と暴力のナルシシズムを認めつつ、社会的に生きることを目指す生き方と、生きることの暴力に自覚的でありながらけっして開き直らない生き方。どちらかというと前者を基本に生きてきた私に、宇野氏の議論は異なる生き方のイメージを強く印象づけた。
 本が、いままでのように読めなくなった人がいたら、この本の話をしつつ、こんなふうに言いたい。面白い物語なら本の世界の外にも沢山広がっているから、まずはドラマとアニメを見るべし。でも、それを明確に記した面白い論理は本の外にはあまり見つからない気がする、と。(波)