その109 本当の私に出会わないために。

 社に入りたての頃、先輩にキャバクラに誘われたことがある。私はそうですね近いうちに、と言いつつ、でもどうして薄暗い空間でジンロを舐めながら女子と小一時間弾まないおそれのあるお喋りをすることに5000円も払うことを許せるのか私には全然理解できないんですよ、とも答えた。君はまだ若いね、コスパ男だね、と先輩は話していたが、いまもって私は同種の店に行く人の気持ちに共感できていない(できたら大変だ)。しかしながら、あの手の店が少なからず存続しているという事実には大いに関心がある。そこには多少大げさにいえば人類の理性の敗北があるような気がするからだ。夜毎キャバクラで繰り広げられる不合理の勝利と戦うことなくして、世界平和は訪れないような気がするのだ、なんとなく。

 先輩が私に、君はまだ若いね、と言ったのはわかる。いつか肌も髪も衰えてくしゃくしゃつるつるになり、女子のひとりも見向きもしなくなった頃、若い頃には手にすることのなかった年功序列制による可処分所得が手元にあることに気づいた瞬間、前頭葉のどこかでチャクラが開いてキャバクラの採算分岐点が見えたりするのだと思う。
 しかしこれではまだ謎の半分しか解明できていない。同種の店にはコストでは説明できない魅力があるはずなのだ。

 この私の内面におけるキャバクラ問題に決着をつける本が現れた。それは國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』という本である。人は退屈とどう向き合うべきか、という簡単そうできわめて難しい問いを先人たちの知恵を参照しながら考える読み易い哲学書である。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 退屈する人間は興奮できるものなら何でももとめる。それほどまでに退屈はつらく苦しい。ニーチェも言っていたとおり、人は退屈に苦しむのだったら、むしろ、苦しさを与えてくれる何かをもとめる。
 それにしても、人が快楽などもとめていないとは驚くべき事実であれる。「快楽」という言葉がすこしかたいなら、「楽しみ」と言ってもいいだろう。退屈する人は「どこかに楽しいことがないかな」としばしば口にする。だが、彼は実は楽しいことなどもとめていない。彼がもとめているのは自分を興奮させてくれる事件である。

 もう今の引用箇所だけでもキャバクラという装置を求める男の心性を説明するには十分だろう。そこでは、女子との交接可能性という期待を起動させて興奮を得るとともに、高額の支払いという苦痛までもが体験できる。ポイントは基本的にお喋りしかできないことだ。そこには快楽なき興奮がある。

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 キャバクラの話を書き過ぎた。本当はそんな話をしている場合ではなかった。一見難しそうなジャンルの本ですが、ものすごくいいと思うんです、ということを伝えたくて、なんとなく俗っぽいことをマクラにしたら長文になってしまった。

 もうすでに哲学、思想の分野を研究している人たちには周知の事実なのかも知れないけれど、この本を読んで私がいちばんよかったと思うのは「本来性なき疎外」という考え方を知ったことだ。

 私たちは日々疎外されている感じをいだくことがある。もっとすてきな自分、もっとすてきな仕事、もっとすてきな休日の過しかたから私は「疎外」されているのではないかと。でもそれは「おぞましいこと」を呼び出す可能性があると國分氏は説く。とても大事な考えだと思うので、長くなるけれど引用する。

 疎外された状態は人に「何か違う」「人間はこのような状態にあるべきではない」という気持ちを起こさせる。ここまではよい。ところがここから人は、「なぜかと言えば、人間はそもそもこうではなかったからだ」とか「人間は本来これこれであったはずだ」などと考え始める。

 <本来的なもの>は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが<本来的なもの>と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。

 たとえば、「健康に働けることが人間の本来の姿だ」という本来性のイメージが受け入れられたなら、さまざまな理由から「健康」を享受できない人間は非人間として扱われることになる。これほどおぞましいことはない。

 今の箇所を読んで、何かを思い浮かべた人もいると思う。それは教室でのいじめの瞬間だったかもしれないし、オウム事件だったかもしれないし、ナチスのことだったかもしれない。

 國分氏は、疎外については認めよう、でもその疎外は本来性なき疎外なのだ書いている。どうしたら「本来的なもの」を呼び出すことなく、疎外に向き合っていけばいいのだろう。そういう問題意識をもって書かれたのがこの『暇と退屈の倫理学』という本だ。結論についてはここで書かないし、読んだとしてもそれは個人的な読みにとどまるだろう。大事なのは問うことと、考えつづけることなのだと思う。

 ちょっと個人的なことを書くと、ボードリヤールを読んで感じた共感と消費世界への幻滅に真摯に向き合ってくれた初めての本だった。紹介してくれたK一郎くん、ありがとう。(波)