その107 メメント・モリとお正月。

 年お正月になると、ああ、明けちゃったよと思う。ことに3が日がつらい。こちらは52週間分の新しい重荷が肩にのっけられたことで憂鬱な気分なのに、テレビからは洪水のようにおめでたモード全開のお笑い番組が流れてくる。笑えば笑うほど、なんとなく暗いものが検閲されているような雰囲気に呑まれて気分がずるずる下降していく。休み明けという名の対岸からひたひたと寄せてくる現実の波に足がすくんで嫌になったとき、私はなるべく暗い曲を聞き、暗い本を読むことにしている。特に死の表現と一緒にいると、なんとなく心が休まる。不思議となのか、当然なのかはよくわからない。ともあれ、お正月にこそ死と寄り添って終末的時間意識に浸りたい、という奇特な方々のために、今日は心のやすまる本と音楽をひとつずつ紹介したい。

 2011年に読んだ本でいちばん面白かった本は? と問われたなら私は、アレックス・ロスの『20世紀を語る音楽』だと答える。以前にこのブログでも書いたので内容についてはそちらを見ていただくとして、その本のなかに、アルヴォ・ペルトが1978年に発表した「タブラ・ラサ」という曲が出てくる。おそらく何百という曲目が出てくるこの大著のなかで、本を読んだあと一番最初に聴きたくなったのがこの曲だった。理由はふたつあって、ひとつはおよそ売上げとは縁のなさそうな現代音楽というジャンルにも関わらず百万枚を超えるセールスを記録していたから。もうひとつはニューヨークの病院で死ぬ間際のエイズ患者がこの曲を繰り返し看護婦にリクエストしたというエピソードが書いてあったからだ。「無人島に持って行く10冊」とか「小菅拘置所で読みたい10冊」とかいう雑誌の特集と同じような感じで、死ぬ直前に繰り返し聞きたい曲というのはかなり聞く必然性がありそうだと思った。

Tabula Rasa, etc / Kremer, Jarrett, Davies et al

Tabula Rasa, etc / Kremer, Jarrett, Davies et al

  • アーティスト: Arvo Pärt,Dennis Russell Davies,Saulius Sondeckis,Stuttgart State Orchestra,Lithuanian Chamber Orchestra,Keith Jarrett,Alfred Schnittke,Berlin Philharmonic Cellists
  • 出版社/メーカー: Ecm Records
  • 発売日: 1999/11/16
  • メディア: CD
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 実際に『タブラ・ラサ』を買って聞いてみた第一印象は「これが百万枚?」だった。暗い。いくらなんでも暗すぎる。いつもジャケットが超モダンでおしゃれなECMレーベルから出ていなければ誰もこんなに買わなかったんじゃないかと思えるほど暗い。一曲目のピアノをキース・ジャレットが弾いていなかったら誰もこんなのまともに聞かないんじゃないかと思えるくらい暗い。買ったのは5月頃だったが、夜中にひとりヘッドホンをして聞いていると、たしかにもうすぐ自分は死ぬんじゃないかと思えた。音楽の素養のない私の代わりにアレックス・ロスに記述をしてもらうと、この表題曲は「プリペアード・ピアノのアルペッジョが、羽のようなカサカサいう音をたてて、氷のように美しいニ音上の単和音を導き入れる」ところが聞きどころで、「テクノロジーが浸透している文化に、静けさというオアシスをもたらした」から沢山売れたらしい。ロス氏のいうとおり、この曲をかけていると無音の時よりも静かな時間を体験できる。かすかに響いていた音がなくなることで、こちらの耳が聞こうとする。その態度は、死を目前にして生きようとする感じとたしかに似ているのかも知れないと思った。
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 死について意識することで生きる意味を再発見する、という意味では、神谷美恵子さんの『生きがいについて』という本も同じ効用があると思う。彼女はげんざいハンセン病とよばれている所謂「らい」の療養所で精神科医として働いた経験をもとにこの本を書いた。そこには病気になってこれまでの社会と隔離され、生きがいを失った人々が沢山暮らしていた。しかしながら重症の患者のなかにも生き生きと暮らしている人がいることに彼女は気づき、その違いはいったい何だろう、何がひとに生きがいをもたらすのだろうと不思議に思った。その疑問に時間をかけて答えようと、神谷さんは7年かけてこの本を執筆したのだという。彼女はまえがきにこんなふうに書いている。

 あるひとにとって何が生きがいかという問いに対しては、できあいの答えはひとつもないはずで、この本も何かそういう答をひとにおしつけよういう意図はまったくない。ただこの生きがいという、つかみどころのないような問題を、いろいろな角度から眺めてみて、少しでも事の真相に近づきたいとねがうのみである。著者の理解と考えの及ばないところに、まだたくさんの大切なものが残されているにちがいない。

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

 著者の高邁な精神とやさしい言葉遣いとは裏腹に、この本を読むひとのいくぶんかは私をふくめてこの本から生きがいをかすめとってやろうというせこい意図をもっていたり、あるいは「アフリカの子供が飢えているんだからご飯は残さず食べなさい」式の、ある悲惨な境遇を意識下に呼び出すことにより自分の苦痛を緩和しようという下種な気持を抱いているのかもしれない。実際に読んでみて、生きがいのヒントのいくつかはこの本にあると感じたし、辛い境遇にあるひとがどうやって毎日を過しているかという事例は見習うべきだと思った。でも一番大事なことは、同じだということだと思う。どんなに豊かでも、すぐれていても、けっきょく同じだということ。それを思い出すことがとこの本を読む一番の意義であるに違いない。本書の最後にこういう記述がある。

 死刑囚にも、レプラのひとにも、世のなかからはじき出されたひとにも、平等にひらかれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものではなかったか。一個の人間として生きとし生けるものと心をかよわせるよろこび。ものの本質をさぐり、考え、学び、理解するよろこび。自然界の、かぎりなくゆたかな形や色や音をこまかく味わいとるよろこび。みずからの生命をそそぎ出して新しい形やイメージをつくり出すよろこび。——こうしたものこそすべてのひとにひらかれている、まじり気のないよろこびで、たとえ盲であっても、肢体不自由であっても、少なくともそのどれかは決してうばわれぬものであり、人間としてもっとも大切にするに足るものではなかったか。
 このようなことを彼に教えたのは苦しみと悲しみの体験であった。このようなことをわかってくれるひともまた深い苦悩を一度は通ったことのあるひとにほとんどかぎられていた。結局、人間の心のほんとうの幸福を知っているひとは、世にときめいているひとや、いわゆる幸福な人種ではない。

 いまこの文章を書いていて、正月番組のあいまに流れていた”ウィルコムの誰とでも定額”のコマーシャルで、佐々木希に誠実そうな速水もこみちとは真逆の人間だと言われた”いい加減な人代表”の高田純次が、「顔は似てると思うけどなー。だって真ん中にあるの鼻でしょ?」と返すくだりを思い出した。とりあえずは、あの高田純次の精神を今年一年忘れずにいたい。(波)