その106 やがてくる未来に出会いたい本。

 まや韓国の国民的歌手と断言して異論を唱えるひとは少ないであろう、IU(あいゆ)の第2集『Last Fantasy』が発売された。そこに収録されている活動曲「You&I」の歌詞について、今日はどうしても書いておきたい。

 あなたがいる未来で
 もしわたしが彷徨っていたら
 あなたに気づくことができるように
 わたしの名前を呼んでね

 この4行から立ち上がる距離の感覚ときらめきを私は知っている。フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』の結末部分をものすごく連想させるのだ。

 ギャツビーは、その緑色の光を信じ、ぼくらの進む前を年々先へ先へと後退してゆく狂躁的な未来を信じていた。あのときはぼくらの手をすりぬけて逃げていった。しかし、それはなんでもない——あすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう……そして、いつの日にか——
 こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

 ふたつに共通するのは二重の感覚である。信じがたい未来を、信じようとする心が乗り越えようとしている。私たちは時間を超えられると強く歌っているところがあまりに同じだ。
 「You&I」の歌詞は、いまはまだあなたにふさわしくない子供のわたしが、未来のあなたへ向けて呼びかけをしている。未来でわたしの名前を呼んで、と。けれども未来のわたしを今のわたしは信じていない。そこには時間に対するあきらめがある。未来のわたしは信じられないから、未来のあなたに呼びかけている。つまり私たちは2人いれば、時間を超えられると歌っているのだ。
 「ギャツビー」にも「年々先へ先へと後退してゆく狂躁的な未来を信じていた」という分裂したフレーズがある。にもかかわらず「それはなんでもない——あすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう」と続く。求める未来そのものに信用がおけなくても、それをもっと強く求めようというとき、そこにあるのは距離への信仰だけだと、私は思う。私たちに必要なのは未来ではなくて距離なのだというモラルがそこにある。そしてその距離を作り出すためには未来があり過去があり、わたしがいてあなたがいなくてはならない。いま、自分の書いていることは意味をなしているのだろうか…とちょっと自信がなくなってきたが、大事なことなので、自分の思考に偽りなく書いておきたい。どんなにものがはっきり見えるようになっても、未来を、コミュニケーションの夢を、新しい眠りを信じることは私たちが死なないためにどうしても必要なことだと思う。

*     *     *

フィッツジェラルドは彼の偉大なる瞬間を生きた。そこにあったドラマを思い出すとき、彼はそのような瞬間をもう一度生き直した。しかし同時に彼は、そのような瞬間から一歩離れて立ち、冷ややかな目でその原因と結果を検証した。それは彼の二重性であり、あるいはまたアイロニーであった。そしてそれこそが彼の作家としての傑出した点のひとつだった。

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 文芸評論家のマルカム・カウリーが「フィッツジェラルドの二重性」について書いた上のことばは、極端にいえば日常生活の教訓にもなりえると思う。きわめてシニカルな目をもちながら、だれよりもロマンティックに生きることは見る人を感動させるという意味で。フィッツジェラルドが好きな方は、ほんとIUのMV見てください。泣けます。そしてIUが好きな人は、フィッツジェラルドの小説を是非。(波)
http://www.youtube.com/watch?v=f_iQRO5BdCM&list=FL84Ladljl-yb5ty0QdOIYzg&index=1&feature=plpp_video