その104 心に従えない人にすすめる本。

 ティーブ・ジョブズが死んで、多くの人が追悼にスタンフォード大学で彼が行った講演をブログで、ツイッターで紹介していた。その中でもひときわ多くの人が引用していたのが、最後の一節だろうと思う。

自分はいつか死ぬという意識があれば、なにかを失うと心配する落とし穴にはまらずにすむのです。人とは脆弱なものです。自分の心に従わない理由などありません。

 私も友人の口から、最後の言葉には本当に感銘を受けたという話を聞いた。自分の心に従わない理由などない、その通りだと。私はその話をだまって聞いた。そうだよね、とも、違うんじゃない、とも言えなかった。モヤモヤしながら聞いていた。「犯罪者を殺すことは倫理的でありうる—が、そのことの正当化は、けっして倫理的ではありえない」というヴァルター・ベンヤミンの表現を前に読んだことがあるが、そのときの私の気持は、ちょうどそんな感じだった。自分の心に従うことは倫理的であっても、その正当化となると心のなかでちょっと待ったコールが聞こえる。

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

 スティーブ・ジョブズは自分の心の声に従って生きた人だ。誤解する人がいると思うので書いておくと、自分の心に従うことと、私利私欲に溺れることは全く違う。彼を突き動かしていたのは身体的欲求とは別の「すごいものを作りたい」という単純明快な理想だった。

「顧客が望むモノを提供しろ」という人もいる。僕の考え方は違う。顧客が今後、なにを望むようになるのか、それを顧客本人よりも早くつかむのが僕らの仕事なんだ。ヘンリー・フォードも似たようなことを言ったらしい。「なにが欲しいかと顧客にたずねていたら、『足が速い馬』と言われたはずだ」って。欲しいモノを見せてあげなければ、みんな、それが欲しいなんてわからないんだ。だから僕は市場調査に頼らない。歴史のページにまだ書かれていないことを読み取るのが僕らの仕事なんだ。

 ジョブズ氏はなかなか家具が選べなかったというエピソードがある。ソファを買うにあたって、嫁と家具とは何ぞやという話し合いを8年も続けたらしい。快適さよりも大事なものがジョブズにあったことを物語る話だと思う。かくのごとく、自分の良心や審美眼に妥協しないで生きると、いちいち軋轢が起きてめんどくさい。けれどもジョブズは一貫して軋轢を恐れなかった。マッキントッシュを作るときには、タイトルバーを20回も作り直し、外箱のデザインを決めるのに50回もやり直しを命じた。アップルのCEOに返り咲いた直後には、意思決定に時間がかかるという理由で取締役を一人を除いて全員解任した。ipodの開発時に、これ以上小さくできませんと訴える部下の目の前で端末を水槽に落としてぶくぶく泡立たせ、空気が入ってるんだからもっと小さくしろと迫ったという伝説もある。

僕はまわりに厳しくあたった。あそこまで厳しくしなくてもよかったんじゃないかとも思う。社員をひとりクビにした日、6歳のリードが家に帰ってきたときに「今日、失業したんだと家族や小さな息子に話さなきゃいけないなんて、彼はどういう思いをするんだろう」って考えてしまった。
 つらかったよ。でも、誰かがやらなきゃいけないんだ。チームをすばらしい状態に保つのは僕の仕事だとずっと思ってきた。僕がやらなきゃ誰もやらないからだ。

 コンピュータの登場によって私たちには処理しなければならない情報がふえた。会える可能性のある人も、手に入るモノも多くなった。でも私たちの体のサイズと鼓動の回数は変わらない。だからそこにはギャップが生まれる。このギャップに一つの答えを出した人、それがスティーブ・ジョブズだというふうに私は思っている。統合し、集中し、多くの情報を切り捨てた。そのときの判断規準は「もっと売れるか」とか「もっと気持ちがいいか」ではなくて「そこには洗練を突き詰めた単純さがあるかどうか」だった。

 ジョブズ氏の禅的哲学にもとづいた製品に足りない何か、それが「自分の心に従わない理由などない」という言葉を正当化されたときに感じた違和感の先にあるものだと思う。そこに決定的に欠けているもの、たとえば理想的な愚かさとか、偶然性の面白みといったものを言葉にし、製品にする仕事がまだ私たちには残されている。この伝記を読んで、そう思う。(波)

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II