その97 悲しみよ、さようなら。

 れはいつ聞いた話だったか、ネット書店で働いている人が「ビジネス書は日曜日の午後に売れるんですよ」と言っていた。もう何かをはじめるには手遅れの時間になってから本に救いを求める気持というのはよくわかる。マルクス・アウレーリウスの『自省録』を買いに走ったときの私も同じような精神状態だった。

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

 普段読むことはないが嫁が購読している読売新聞日曜版の「本のよみうり堂」を虚ろにめくっていたら、アメリカ文学者の都甲幸治さんが「究極のビジネス書」として『自省録』を薦めている記事に出会った。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20110808-OYT8T00756.htm
 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』などの翻訳で知られる都甲氏が、およそ仕事とは関係なさそうな古典を紹介しているのに興味をそそられた。しかも紹介されている『自省録』の訳者は『生きがいについて』の神谷美恵子さん。これは間違いなさそうだ……と私の心のアンテナがいやらしい音を立てた。

 夜10時すぎ、家を出た。雨が降っていたので人通りのまばらな商店街を抜けて、その時間でもやっている書店を2つ回ったら、2軒目で見つかった。これは徹夜だ。徹夜で読んでやる……。買い求めた後の私の心は猛り狂っていたが、この本を2章も読むとそんな野心はどこかに吹き飛んでしまった。私の決心が弱いのか、この本の効き目が絶大だったのか、おそらくは前者だと思う。

 語られているのは頑張り方というより諦め方に近い。だから私もすぐにこの本を閉じてしまったわけだが、次の日からは仕事鞄に入れて、通勤電車の行き帰りで繰り返し読んだ。この本くらい「座右の一冊」と呼ぶにふさわしい本は他にないと、今は思っている。

なんとすべてのものはすみやかに消え失せてしまうことだろう。その体自体は宇宙の中に、それに関する記憶は永遠の中に。すべて感覚的なもの、特に快楽をもって我々を魅惑するもの、苦痛をもって我々を怖れしむるもの、虚栄心の喝采を受けるものなどは、どんなものなのであろう。なんとそれはやすっぽく、いやしく、きたなく、腐敗しやすく、死んでいることであろう。(第2巻12章)

君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙遜であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く「これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。」(第4巻49章)

 マルクス・アウレーリウスがこの本で語っているメッセージは明快だ。第4巻3章に書いてあるとおり「宇宙即変化 人生即主観」。人は必ず死ぬし、どんな富も名声も数世代のうちに霧消してしまう。また自分の心の中を自由に保てることが人間固有の特長であり、どんな苦しみもそれを受けとる主観まで侵すことはできない。もしそんな主観までが失われるような時が来たら、そのときは人生から去ってゆけ…。以上が私がこの本から受けとった大意である。

 もしこれが他人に向けた説教だったら、ただ、うるせえ分かってる、と言われて終わりなのかもしれない。しかしこの本は徹頭徹尾自分のために書かれた日記だということに感動の源泉がある。単純明快なストア派の哲学を、人生の折にふれて思い出し、自分の糧としようとした。そのシチュエーションひとつひとつに輝きがある。

とはいえたしかに死と生、名誉と不名誉、苦痛と快楽、富と貧、すべてこういうものは善人にも悪人にも平等に起るが、これはそれ自身において栄あることでもなければ恥ずべきことでもない。したがってそれは善でもなければ悪でもないのだ。(第2巻11章)

 たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、記憶すべきはなんぴとも現在生きている生涯以外の何物をも失うことはないということ、またなんぴとも今失おうとしている生涯以外の何物をも生きることはない、ということである。したがって、もっとも長い一生ももっとも短い一生と同じことになる。なぜなら現在は万人にとって同じものであり、[したがって我々の失うものも同じである。]ゆえに失われる時は瞬時にすぎないように見える。なんぴとも過去や未来を失うことはできない。自分の持っていないものを、どうして奪われることがありえようか。(第2巻14章)

 あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。(第4巻17章)

 皇帝として民衆に慕われたいと思ったが、民衆がついてきてくれなかった。信頼していた味方に裏切られた。嫁も子供も自分の孤独をわかってくれない。戦争の陣頭指揮から離れて、静かな哲学的生活を送りたいのに、状況がそれを許さない。子供を病気で失って悲しくてやりきれない。等々。この『自省録』に記された箴言の影には人間くさい懊悩が暴れている。それでもなお、倫理的に、善き人であろうという皇帝の心の誓いに私は激しく打たれた。(波)
 

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

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生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

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