その70 妖精になってしまったあなたへ。
会いたかった人でも、思いがけない形で会ってしまうと、その人と別れたあとで心の距離だけ残ってしまうことがある。何の卵か知りもしないでキャビアを食ってしまったような、ありがたさが遠い感じ。まちがいなく舌はキャビアとの邂逅を果たしたはずなのに、いまひとつ抜群においしいという実感がない。舌の味蕾たちはビンビン反応していても、それを受けとめるミットが脳に存在していなかったという悲劇。
私たちヒューマンカインドは、なんだかんだいっても霊的存在、言語的存在なのだなあという実感をもつのは、そんな時である。ことばによってあらかじめ心に洞穴を開けておいてはじめて、何かのありがたみがわかる。なんだかんだ言って所詮人間も動物、みたいな議論はメディアのあちこちで目にするのに、なんだかんだ言って人間は妖精ないしは天使、みたいな話はあまり聞かない。天使よりも動物に近い人が多いのはおそらく本当なんだろうけど、ただの動物ではないという部分に私はとても興味があるのだ。
こないだ立ち寄った大阪の書店で、店の人に何かおすすめを、と聞いたあげくおすすめが一冊も気に入らず、けっきょく自分の趣味に走って『思想地図vol.5』を購入してしまった。そのなかに載っていた社会学者・橋爪大三郎氏の小文がとても面白かったので少し紹介したい。
- 作者: 東浩紀,北田暁大
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2010/03/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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言語は何を可能にしているのか。
言語は、知覚を超えた対象を出現させる。
(中略)
文は、否定(実現していない出来事)や仮定(現実ではない出来事)を表現することができる。このような文とともに用いられる名詞は、もはや、単なる記号(名辞)ではなく、まして象徴ではない。それは、モノと区別される“対象”(言葉が指し示すもの)の誕生である。
*
対象は、言語とともに存立し、言葉が指し示すものである。言葉の意味や価値は、対象とともに実在し始める。
こうして、世界が立ち現れる。
言葉におおわれた世界は、意味と価値に満ちた空間となる。そこにはモノではないが実在性をもった対象が多く存在し始める。人間(の個別性)もそうしたものだ。
(橋爪大三郎「思想の言葉と社会学の知」)
簡潔だが、けっこうややこしい。でも私にとって「存在しない」という事を他人と共有できるのが人間独自の特徴だ、という点がとにかく衝撃だった。
どういうことかというと、すべての小説はモノ化した「不在」の表現だということに気がついたのである。「存在」だけではなく「不在」も感じることができる。ここから生まれる喜び、悲しみが人生を耐えるに値するものにするのだと分かってとても嬉しくなった。
ここで「不在」をテーマにした小説で、どうしても紹介したいものがあるのですが、長くなってしまうのでまた次回に。(波)