その63 もういちど、宇宙へ。

 『宙飛行士オモン・ラー』(群像社)、どうだろうか。もうタイトルと出版社名だけで何となくひっかかってこないだろうか。この本は今年の6月末に出たばかりだ。読売新聞の読書欄「本のよみうり堂」にも書評が出ていたから、まだ本の題名に記憶がある人もいるかもしれない(書評のWeb版をリンクすることもできるが、ややネタバレを含む記事なので今は避ける)。宇宙飛行士オモン・ラー。なんとなく、宇宙刑事ギャバンっぽくないだろうか。自動刑事ジバンっぽくはないだろうか(懐かしいのは私だけだろうか)。そして、群像社をあなたは知っているか。私は知らなかった。現代ロシアの文学作品を出している出版社のようです。この本の著者、ペレーヴィンの邦訳も他に3冊出ている。

宇宙飛行士オモン・ラー (群像社ライブラリー)

宇宙飛行士オモン・ラー (群像社ライブラリー)

 私は恵比寿にある有隣堂の文芸フェアでこの本に出会った。書店員と、出版社の営業担当が今年出た他社の文芸書を推薦するというフェアで、SFに強い出版社の営業の方がすすめていた。あまたある話題作のなかで、なぜこの本を!? と疑問に思った。そのときはなんとなく、そのままにしていたのだが、翌日ブックスルーエの新刊台に1冊だけ置いてあるのを見つけたとき、ああもうこれはほっとけないと思い勇気をふるって購入に踏み切った。

 そっと本を開いてみると、帯もなにもない簡素でスタイリッシュな表紙デザインと、袖の返しに印刷された紹介文のテンションの高さとの落差に軽く驚く。

うすよごれた地上の現実がいやになったら宇宙へ飛び出そう!
 
子供のころから月にあこがれて宇宙飛行士になったソ連の若者オモンに下された命令は、帰ることのできない月への特攻飛行!
 
アメリカのアポロが着陸したのが月の表なら、ソ連のオモンは月の裏側をめざす。
宇宙開発の競争なんてどうせ人間の妄想の産物に過ぎないのさ!?
だからロケットで月に行った英雄はいまも必死に自転車をこぎつづけてる!
 
ロシアのベストセラー作家ペレーヴィンが描く地上のスペース・ファンタジー

 特攻飛行? 地上のスペース・ファンタジー? 自転車をこぎつづけてる? 
このイカモノ感、なんとも気になる。

 ペレーヴィンを自宅に招いたこともあるというロシア文学者の沼野充義氏によれば、彼は「SF的な着想と抜群の構成力、そして現代の風俗に切り込んでいける現代性と東洋的神秘思想への傾斜をあわせもった『純文学エンターテイナー』といったところ」だそうである。純文学と大衆文学の間を埋める存在であるという点から「ロシアの村上春樹」と呼ばれたりすることもあるらしい。(『200X年文学の旅』柴田元幸沼野充義著 作品社)

 私がいままで読んだことのある本のなかで似たものを探すと、村上春樹というより、スティーブン・ミルハウザーアントニー・バージェスを足したような感じだろうか。序盤の宇宙へ憧れる少年の視線のこまやかさは『イン・ザ・ペニー・アーケード』に出てくるゲームコーナーの自動人形に魅せられる少年のそれと重なるし、後半になるにつれて明らかになる国家暴力の恐ろしさは『時計仕掛けのオレンジ』を思い出す。

 個人的に好きなのはその前半部分である。たとえば、こんなくだり。

共産主義の未来の宇宙船(スターシップ)が飛んだ場所は唯一、ソヴィエト市民の意識の中だけだったのだ。

夜が来てメインの照明が落ちると、ふとした一瞬、壁掛けのくすんだライトに照らされた模様が、いつしか忘れられてしまった興奮の対象に姿を変えることがあった。それはまるで、去りゆく少年時代からの最後の挨拶を伝えているようだった。

 この本がいったいどのくらい有名な本になるのか見当もつかないが、いつかは岩波文庫か、新潮文庫あたりに入りそうな気がする。そのくらい面白くて、時代的洞察が深い本だ。この本の主題はまず「美しい嘘の時代よさようなら」という事だと思う。同時に、破綻した嘘の美しさへの哀惜が切実に描かれているところが、冷戦を、大いなる嘘の時代を終えてなお生きる私たちの心を揺さぶる。映画「グッバイ・レーニン!」とか「善き人のためのソナタ」などが好きな人に、おすすめしたい本です。(波)

グッバイ、レーニン! [DVD]

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善き人のためのソナタ スタンダード・エディション [DVD]

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☆おまけ ペレーヴィンの著者インタビュー記事@すばる