その61 期待しない世代の常備薬。

 高が進んでいる、というニュースを最近よく目にする。だからなのか、近所の八百屋のグレープフルーツがとても安い。これはありがたいことなのだが、この円高って何が原因で、長い目でみて、あるいは大きな視点からみて何を意味するのかちょっと心配ではある。もちろん要因はひとつではないと思うし、立場によってもその価値が違うから「わたしにとって」という生活レベルの枠組みをはずした時に何を参考にするべきか、ちょっと迷う。
 Google教えて!Gooに「円高 要因」と打ち込んで調べれば答えは書いてあるだろうけど、誰が言っているのかわからないし、検索情報には「信じるも信じないもあなた次第」という都市伝説の香りを、少し感じてしまうのだ。

 こういうときにいつも頼りにしている本がある。むかし日経ビジネス人文庫から出ていて、去年ちくま文庫で復刊された『クルーグマン教授の経済入門』だ。

クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)

クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)

 この本は、クルーグマン氏がワシントン・ポスト社の要請に応じて、一般読者向けにはじめて書いた90年代アメリカ経済の概説書である。原書(第三版)の発行は1997年。

 日本の読者が、いまだ安定しない経済状況の2010年現在、この本を参考にしてよいかという疑問があると思う。私の考えでは、大いに参考にしてよい、と思う。それは別に、著者がノーベル経済学賞を受賞した、ニューヨークタイムズ紙の人気コラムニストだから、という理由だけではない。
 この本の原題が”The Age of Diminished Expectations”だから。
 私がこの本を信用する理由は、このタイトルに現れている現実認識の確かさにある。

 期待がだんだん減っていく時代に生きている、という感覚に、私は凄く共感する。おそらくいま30歳前後の人には初期設定の感覚ではないかと思う。驚くのは、クルーグマン氏は1953年生まれだということだ。私のような、ものごころついた時から世界中で環境破壊が問題になり、社会は断続的に不況みたいな世代ではなく、大きな経済成長を迎えた時代に青春時代を過ごした人が、その感覚を引きずるでもなく、あの頃の夢をもう一度、私達は復活できる! 式の主張をするでもないというのは、とても貴重なことに思える。

ぼくらは「期待しない世代」に住んでいるのだ。経済は大したものを与えてくれないけれど、それをどうにかしろという政治的圧力もない時代。本書では、アメリカの経済的な失敗とともに成功も描こう。もっと重要なことだが、ぼくは本書で、なぜぼくらがこのがっかりするような経済を改善する努力をしていないのか、という点を説明したい。それは要するに、それを本気でなんとかするには、すごく苦痛を伴う荒療治が必要となるから、という話なのだ。そして現在の方針をこのまま続けた場合、いずれどんな結果が訪れるのかも、示してみようではないの。

 この本が出た後、アメリカではいわゆるサブプライム・ローンの破綻からリーマン・ショック金融商品の大幅な値下がりが起きた。その結果、GMなどの大手企業が経営破綻して失業が増えた。クルーグマンはこの本でそのことを「予言」しているかといえば、そうではない。載っているのは、日米貿易摩擦をどう見るかとか、アメリカ版住専といえる「セービングス&ローン」という機関がいかに規制緩和によって怪しい投資家に荒稼ぎを許し、連邦赤字を増大させたか、等といった少し古い話題だ。

 しかしながら、この本は「状況報道」ではなく、それぞれの問題に対して経済学者という立場から「解説」した本である。だから問題そのものが解決する、あるいは忘却のかなたに押しやられてしまった後でも、他の事例に適用可能な「ものの考え方」が残っている。

 例として「円高」に関連する「ドルの引き下げ」についての記述を引いてみる。

ドルが円やマルクに対して30%下がったら、確かにドイツや日本の賃金に対してアメリカの賃金は30%下がる。でも、これはアメリカの実質賃金が30%下がったってことじゃない。たぶん実質賃金は、1・5%くらいしか下がっていない。
 なぜかって? だって今ですら、ぼくたちが消費する財やサービスは、ほとんどアメリカ国内でつくってるんだもん。それに輸入品のかなりの部分はドル建てで値段がついているんだよ。

 いまの円高は、為替取引で利ざやを出そうとしている人たちが、アメリカやヨーロッパと比べて相対的に安定している日本経済に期待して円を買っているから、起きているのだろうか。そこには輸出の拡大を期待するアメリカの政策もからんでいるんだろうか。私は素人なので、はっきりしたことはわからない。でも、この本の冒頭部分を読むと、経済問題を考えるときに気にするべきことが3つ載っていて、それ以外はいかにマスコミが大騒ぎしても心配することはないと教えてくれる。

経済にとって大事なことというのは――つまりたくさんの人の生活水準を左右するものは――3つしかない。生産性、所得分配、失業、これだけ。これがちゃんとしていれば、ほかのことはまあどうにでもなる。これがダメなら、ほかの話も全滅。それなのに、ビジネスとか経済政策は、こういう大きなトレンドとはほとんど関係がない。

 何か問題が起きたときに「それはほんとうに問題なのか?」と問いなおすきっかけになるこの本は、本というメディアの「遅さという価値」をうまく伝えていると思います。(波)