その53 旅するための地図になる本。

 学部に籍を置きながら、「批評」の授業が苦手だった。はっきり言えば僕の頭が悪い(痛いほど自覚しています)だけだし、複雑な世の中のしくみをそう簡単に説明できるものではない、というのは分かっているけど、それにしても流通している文章に目を通すと、批評家・評論家を名乗る皆さんの頭の良さのひけらかし、あるいはマニア度自慢にすぎず、世界にとってどんな意味があるのだろうと首を傾げることが多かった。(文庫の解説でそういうのに当たると、律儀に?貧乏性で?最後まで読み通す僕としては、すごく損した気になる。)
 大学というビニールハウスを追い出されて、出版社のましてや営業という吹きさらしのような場所(セールスが全て!)に放り出されると、一銭の価値もない「批評」など影もカタチも見えなかった。そこに溢れているのは「面白かった」「つまらなかった」という感情を共有するための、たくさんの感想だった。同じ作品について語り合うことの喜びは得がたいものだし、物語を楽しむ人たちの間ではぐくまれるコミュニティはひとつの可能性だと思うけど、一方でただのおしゃべりを百倍してもおしゃべりに過ぎないんだよなという寂しさがあった。

 突然の人事で物語生産現場の最前線に手伝いとして送り込まれることになった僕はひどく焦った。何から手をつけたらいいものやら、と。変装(といってもスーツを脱いで私服を着るだけですが)してなじみの書店にもぐりこみ、棚を前に数時間考え込んでも、あまりにたくさんの作品で溢れかえっていて、その中で自分に何ができるのか、悩めば悩むほど息苦しくなって、パニックに陥った。通えば通うほど困惑が深まった。そして、救いを求めるように批評の棚へ行き、たまたま出会ったのがこの本だ。

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

 物語について、もう一度考えてみようと思う。
 それは、私たちひとりひとりと世界とのつながりについて考えてみることだからだ。(略)
「物語」について考えることで私たちは世界の変化とそのしくみについて考えることができるし、逆に世界のしくみとその変化を考えることで、物語たちの魅力を徹底的に引き出すことができる−−−。あるいは、そこからこの時代をどう生き、死ぬのかを考えるための手がかりを得ることも可能だろう。物語と世界を結ぶ思考の往復運動が私たちに与えるものの大きさは計り知れないのだ。

 一文一文が、僕の体にしみこんでいった。同じ世代に、同じ言葉を使って、ちゃんとした物語批評に取り組む人のいることが頼もしかった。
 第二次大戦後の世界的な東西対立、国内的な戦後民主主義・高度経済成長・郊外ニュータウン生活という「大きな物語」が、ポストモダンの流れやバブル崩壊によって失われたのはすでに20年近く前のことだ。何が正しいか分からないゆえ安全第一とばかり引きこもらざるを得なかった1990年代を経て、どうせ何が正しいか分からないのだから間違うのは覚悟のうえで「小さな物語」を選ぶ、決断主義の時代が訪れたと説く。しかし、僕らには行動することで何とか生き残らなければならないサヴァイヴァル精神が求められ、結果として一握りの勝者以外はすべて敗者になるバトルロワイヤルが頻発した。
 荒れ果てた戦場に立つ僕らが、次に何を目指せばいいのか。そのヒントとなる物語は、すでに登場しているという。たとえば「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」として捉えられていた生活を、「終わりある(ゆえに可能性に溢れた)日常」に変化させたテレビドラマ。「家族から擬似家族へ、強権的な両親から環境整備へ」という新教養主義の精神を体現したコミック。なんとなく気づいていたことを、言葉にして分かりやすく提示してくれる、それは批評の力だ。

 一読して、いま僕たちのいる世界と組み合って、新しい物語を生み出そうとしている優れたストーリーテラーたちの存在を頼もしく思った。世の中まだまだ捨てたもんじゃない。この本は読み手にとっては物語の世界を旅するための大切な地図となるだろうし、書き手にとってはまたとない援軍となるだろう。
 批評の言葉がふたたび力を取り戻すことを!(藪)